CV:小清水亜美 イラストレーター:sunが2ウサギ
ドロップもしくは探索
1941年6月バルバロッサ作戦発動 当時ソ連軍は大粛清の後遺症と軍の改革の途中だったため、とてもドイツと戦争できる状態ではなかった。 主導権をほしいままにしたナチスドイツは混乱状態のソ連軍を各地で殲滅した。 そんな中クライストの第一装甲集団にソ連第9機械化軍団が立ちふさがった。最終的にこの軍団は敗退するもこの組織的な抵抗により第一装甲集団は想定外の損害を被り速度は停滞した 指揮官の名はコンスタンチン・ロコソフスキー。ソ連最強の前線指揮官にして第二次世界大戦最高の司令官である。 ポーランド人の血が混ざっているというハンデを背負いながらも第一次世界大戦、ロシア内線、中ソ国境紛争で功績をあげ出世したが、大粛清で無実の罪で逮捕され過酷な拷問を受けたが耐え抜き、冬戦争で痛い目を見たスターリンによる軍の再構築で晴れて軍務に復帰し機械化軍団司令官として独ソ戦を迎えた。 東部戦線において彼は常に前線司令官として戦場で縦横無尽に活躍し、その戦いぶりはソ連にとって軍神、ドイツにとって死神といっていいほどである。 モスクワ攻防戦で中央軍集団のボックとグデーリアンを相手取り、縦深防御でドイツ軍の息切れのちに反攻により押し戻しモスクワを守り抜いた。このときの逸話としてモスクワまで24キロまで近づいたときジューコフから「これ以上後退すると銃殺だよ~」と脅されるも「この砲弾が飛び交っていつ死んでもおかしくない場所でその脅しは無意味だ」と突っぱねた。 スターリングラードではヴァツーチンとともにパウルスの第六軍を包囲し降伏させた。 クルスクの戦いでは北部側を担当しモーデルと対決。地形と捕虜からの情報にからドイツ軍の攻撃針路を予測し、ドイツ軍を抑え込んだ。この時点でマンシュタインのツタデェレ作戦は失敗したも同然でありさらに北部側の停滞によりソ連軍は南部に援軍を送ることができた。さらにそこから「クトゥーゾフ」作戦による防御から攻撃の切り替えを完璧にこなしドイツをおしきった。 ここまでの活躍も十分すごいが彼の名声を不動にしたのが「バグラチオン」作戦である。 この一大反攻作戦の前夜、ロコソフスキーは2方向の主攻を提案した。これは攻撃の際は主攻は1つで他の攻撃は補助というソ連軍の常識から大きく外れているものだった。特に今までの経験でドイツの「バックハンドブロウ(機動防御)」によりリスクが大きすぎるとして、スターリンからも再考させようとした。特にロコソフスキー率いる第1ベラルーシ戦線の前には広大な湿地帯が広がっており軍の侵攻が遅れそのうちに各個撃破されると考えられていた。だがロコソフスキーは再三にわたるう告にも関わらず「この案が通らない場合は、私は戦線司令官を辞職します」と頑として譲らずついに根負けしたスターリンが許可し、2方向の主攻になった。 このときドイツ軍は湿地帯が天然の要害となると読みもう片方の攻勢地点に強力な部隊を配備していた。ところがロコソフスキーは湿地帯の比較的浅い場所を特定し、そこに丸太を敷くことで機甲部隊が通過できる道を作り出し、ドイツ軍を強襲した。予想外の事態にドイツ軍はパニックに陥り急きょ機甲部隊をロコソフスキーに向けたが既に遅くドイツ軍は包囲殲滅された。このバグラチオン作戦はロコソフスキー以外にも多くの作戦を連動されており、中央軍集団が文字通り消えた戦いでもある。そしてこの戦いでロコソフスキーの見せた戦い方は敵の予想外の場所を突きそこから機動戦を行うというドイツがフランスで行った電撃戦とほぼ同じである。 この戦いのあと、スターリンはロコソフスキーに対してコンスタン・コンスタノヴィッチと親しみを込めて呼ぶようになった。(ロシアでは敬意をこめて呼ぶときにする。) 終戦後、ロコソフスキーはポーランド国防相になりポーランド軍の管理を行う。とはいえソ連にとってはポーランドの主導権をにぎるためという思惑があり、ポーランドもそれは認識していたため、ロコソフスキーは愛する祖国ポーランドと忠誠を誓ったソビエト連邦との板挟みとなり苦悩することになる。 スターリン死後、ポーランド国防相を辞任しソ連に帰還し副国防相になるも、スターリン批判を進めるフルシチョフと対立し解任され表舞台から降りた その後は、回顧録を執筆しつつ、家族とともに余生を過ごした。 冷静沈着、人当たりがよく誠実で謙虚、エレガントで博識、不撓不屈で人一倍の勇敢さを持ち合わせている、将軍として第一級の分析能力をもちなおかつ部下を押さえつけるのではなくむしろ彼らの自主性を重んじたことから「黙って俺に従え」でもなく「すべて部下にまかせて責任はとる」でもない「部下達とともに一緒にたたかう」というのがかいまみれる。 その人柄と能力から部下や同僚、上司と関係なく国民からも等しく愛されており彼の部下だったカトォコフは「任務は過酷だったが決して不公平なことは感じなかったし、むしろ自分達の意見を取り上げてくれた」チェイコフは「尊敬すべき指揮官であり、いつしかかけがえのない友人になった」とことばを残している。かのスターリンもロコソフスキーには特別な敬意を抱いていたようで、「私にはスヴォーロフはいないが、ロコソフスキーというバグラチオンがいる」と言葉を残している(スターリンにとってバグラチオンは地元の英雄という側面もある) このように完璧超人に見えるがその一方で青年士官だったころは、「シャイで女性が苦手」と同期のバグラミャンと追求していたり、車のなかでぐっすり寝てしまっているところをカメラでばっちり取られていたり、負傷した際に病院の看護婦と浮気したり(なお実の妻子とは生涯ともに過ごしている)、気球に乗ったさいにウキウキ顔なったり割とお茶目なところがあったりする。
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