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ゴリアン のバックアップ(No.13)
入手方法
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| ▼ | 長すぎる説明 |
ヤン・ゴリアン中将*1はチェコスロバキア軍の将校である。 |
独軍での名称がPz. Spw. 30(t)とされるこの軽装甲車の性能は以下の通りである。
| ▼ | 展開 |
乗員数 3名 (車長兼銃塔銃手、第二銃手、運転手) 発動機 Tatra typ 72 武装 |
1926年、軍はタトラT-26/30の耐久性に目を付け、このシャシーから装甲車を開発させた。翌27年から28年に掛けて試験したが装甲厚がわずか3-8mmであった為に採用されず、改良が続けられた。そして33年、後にOA vz. 30と呼ばれる試作車が完成。この試作車のモデルは遂に軍に採用され、34年1月から量産型が(タトラT-72シャシーを利用して)生産開始*21され、35年6月*22までに51両*23が生産された。
軍はOA vz. 27の補助戦力と考えいたようだが、運用の詳細は不明である。少なくとも3両1個小隊の編成を取っていたのは確かなようだ。
チェコスロバキア軍によって戦闘で使用された記録は非常に少ない。その内の一つは、「39年にカルパート・ウクライナ(ことカルパティア・ルテニア)へ侵入したハンガリー軍との交戦に投入された」が最終的には15両*24が撃破され、また(別の?)1両はハンガリー軍に鹵獲されたとされる。
別の事例では「39年3月15日、第8歩兵連隊第3大隊第12機関銃中隊*25に配備されていたOA vz.30がKarel Pavlik大尉の指揮下で独軍と交戦」したと云うもので、最終的には随伴のSdkfz.222に撃破されたようである。
その後、30両はドイツ軍に鹵獲され、スロバキア軍は18両*26を装備した。この18両は早速、スロバキア・ハンガリー戦争に投入されて1両が撃破されたとされる。
41年6月24日1個小隊3両は快速部隊に編入され、7月8日に快速旅団に再編されるともう2両追加させた。「7月23日、Lipovecの赤軍第44山岳師団との戦闘において1両*27撃破、2両大破(理由は地雷か)の損害を受けた」為、8月上旬*28に全て後送される。この事から7月25日の快速師団への改編の際に編成から外れたと思われる。
1個中隊6両は保安師団*29所属として投入され、42年*30「11月9日にBagar中尉指揮下の4台のOA vz.30によって補強されたスロバキア部隊は強い抵抗に会った。結果、OA vz.30を3両失い撤退を余儀なくされた。装甲車に加えて、Bagar中尉を含む乗員4名を失う。さらに2ヶ月間ベラルーシに滞在した後、1943年1月12日の残りの装甲車はスロバキアに戻った」。
その後国内に回収され、蜂起で使用するために前線への復帰を遅らせたようだ。そして44年8月29日現在、13両*31が保管されていたが何れも稼働状態では無かったようだ。そして蜂起軍が回収する前に独軍に回収され5両が(戦闘に使えない為に)射撃の的にされたとも、無事蜂起に投入されたとも伝えられる。
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