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ラウヒェルト のバックアップ(No.13)
CV:河瀬茉希 イラストレーター:フジタ 入手方法
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マインラート・フォン・ラウヒェルト(ラウヘルト)少将(1905 - 1987)。
出身地はベルリンの西に隣接するポツダム。
1924年に当時のヴァイマル共和国軍に入隊する。
1935年ドイツ再軍備宣言とともにドイツ国防軍が発足すると対戦車大隊に配属され、3年後にはバンベルクにある第35装甲連隊第2中隊長となって開戦を迎える。
ドイツのポーランド侵攻が始まると第35装甲連隊もポーランドに向けて進軍するが、途中負傷した大隊長に代わって大隊の指揮を取るようになり、
目覚ましい活躍を見せたとして二級鉄十字章、10月末に一級鉄十字章を授与される。
その後正式に大隊指揮官としてフランス侵攻にも参加。明けて1941年4月1日付で少佐に昇進し、連隊長となって東部戦線に従軍する。
9月8日に連隊指揮官として優れた能力を発揮したとして騎士鉄十字章、さらに陸軍名鑑章を授与される。
これは軍功著しく模範的な士官や兵士の功績を讃え、総統自らの署名入り軍報に名前と功績を掲載されて顕彰されたもので、
受章者は大変な名誉であるとされた。(騎士鉄十字章よりも受章者数が少ない。)
名鑑に名前が乗ったことでラウヒェルトの名前はエーベルバッハやグデーリアンと言った著名な将軍たちにも広く知れ渡ることになった。
バルバロッサ作戦の失敗により更迭されたグデーリアンが装甲兵総監に任命されると、
新型戦車パンターのテストを行う際ラウヒェルトがその部隊の指揮官に指名されている。
パンター戦車の初陣であるツィタでレ作戦では準備不足やパンター自体の欠陥もあり、活躍することは出来なかったが、
ラウヒェルトはその後もパンター部隊を指揮して戦い続け、1944年にはシュトラハヴィッツ戦闘団傘下に入り、カリウスたちがナルヴァで戦っている間、
南側で分断された北方軍集団と中央軍集団を再接続させるなど活躍した。
ナルヴァからの撤退後は西部戦線に回され、バルジの戦いで先陣を切るべく第二装甲師団の師団長に任命される。
ラウヒェルトたちは突出部の最先端を押し広げよく戦ったが、米軍の反撃により次第に消耗、3月中旬には師団も壊滅し、
残った部下たちを分散させライン河を渡って撤退するよう命令すると、自身も川を泳いで渡って撤退した。
すでにライン川の防衛線はレマゲンのルーデンドルフ橋が陥落し、総統命令により橋の防衛に当たった将校は銃殺されるなど、
戦況にも自軍の内情にも絶望したラウヒェルトは、失意のまま1人で開戦時、華々しい栄達のスタート地点となった第35装甲連隊の駐屯地パンベルクへ向かい、
そこでそのまま終戦を迎えた。
終戦後フランス当局に身柄を拘束され、戦争犯罪への関与を疑われたが、特に証拠もなく1948年には釈放された。
戦後は妻の実家の会社に務め、映画「バルジ大作戦」のアドバイザーなどを務めた。
映画のヘスラー大佐のモデルの1人(もう一人はパイパー)である。
その後運輸会社を設立したが経営に行き詰まり手放し、妻とも離婚するなどつらいこともあったが、
別の女性と再婚して87歳で生涯を閉じた。(手放した会社はその後経営再建に成功し、今も残っているとか)
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