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ゴリアン のバックアップ(No.16)
入手方法
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| ▼ | 長すぎる説明 |
1906年 1月26日 ハンガリーはトルナ県ドムボワル市在住のスロバキア人家庭に生まれる。 |
独軍での名称がPz. Spw. 30(t)とされる軽装甲車。
1926年、軍はタトラT-26/30の耐久性に目を付け、このシャシーから装甲車を開発させた。翌27年から28年に掛けて試験したが装甲厚がわずか3-8mmであった為に採用されず、改良が続けられた。そして33年、後にOA vz. 30と呼ばれる試作車が完成。この試作車のモデルは遂に軍に採用され、34年1月から量産型が(タトラT-72シャシーを利用して)生産開始*16され、35年6月*17までに51両*18が生産された。
チェコスロバキア軍によって戦闘で使用された記録は非常に少ない。
チェコスロバキア解体後、30両はドイツ軍に鹵獲され、スロバキア軍は18両*19を装備した。この18両は早速、スロバキア・ハンガリー戦争に投入されて1両が撃破されたとされる。
その後、東部戦線に加わるもスロバキア国内に回収され、蜂起で使用するために前線への復帰を遅らせたようだ。そして44年8月29日時点では13両*20が保管されていたが何れも稼働状態では無かったようだ。そして蜂起軍が回収する前に独軍に回収され5両が(戦闘に使えない為に)射撃の的にされたとも、無事蜂起に投入されたとも伝えられる。
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