キュリー のバックアップ(No.2)

元ネタ紹介 Edit

カナダ陸軍のデイビット・ビビアン・クリー少佐(1912-1986)カリーと記す文献もある。
カナダ生まれで大学卒業後、自動車整備士や溶接工として働いていた。
第二次世界大戦が始まると民兵組織に入隊し、1944年までに少佐に昇進していた。


1944年6月、ノルマンディー上陸作戦によってカナダ軍はジュノー・ビーチから上陸、フランス本土へと進発する。
8月にはイギリス軍とカナダ軍によって引きつけられたドイツ軍の側面と背後をアメリカ軍がコブラ作戦により大きく前身に成功したことで、
ファレーズ方面でのドイツ軍に対する大きな包囲網が完成しつつあった。
いわゆるファレーズ・ポケットである。
この包囲網の退路を塞ぐため北からカナダ軍とポーランド軍、南からはブラッドリー率いるアメリカ軍が進軍していたが、
同士討ちを恐れてアメリカ軍の進軍は停止、ポーランド軍は包囲網の外側からドイツ軍の猛攻を受け、カナダ軍は内側から脱出を試みる部隊の攻撃を受けた。


キュリーはおよそ200人の兵士と12両のM4中戦車(内何両かがファイアフライだった可能性がある)を率いて、
一路包囲網の重要拠点となる、サン=ランベール・シュル・ダイブのコミューンの確保に向かった。
ここは三方を道路に囲まれた完全な突出部であり、ドイツ軍にとっては最後の脱出路の一つでもあった。
サン=ランベールへたちまちのうちに猛攻撃が加えられたが、砲撃支援の権限を持っておらず、空爆要請も無視されたキュリーは、
200人の仲間たちと36時間に渡り死闘を展開した。
壊れた戦車をバリケードにし、時には自ら戦車に飛び乗って機関銃を撃ちまくり、3000人近いドイツ軍を足止めし続けた。
結局キュリーたちは僅かな部隊で敵戦車7両、8.8cm砲12門を撃破し、ドイツ軍に800名の死傷者を出させ、残った2100名を捕虜とした。
この戦いの功績によりキュリーは、ファレーズの戦いで唯一となるカナダ人からのヴィクトリア十字章を授与された。


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