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ナイグル のバックアップ(No.5)
CV:菊地美香 イラストレーター:COMTA 入手方法
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元ネタはドイツ国防軍対戦車砲兵、ルドウィヒ・ナイグル曹長
1921年8月5日、アウグスブルクに住む家の15番目の子どもとして生まれる。
1940年8月に、国家勤労奉仕団(RAD)に徴兵され、一時期第2戦闘航空団「リヒトホーフェン」の地上要員として勤務した。
ところが1941年9月今度は国防軍に徴兵され、なくなく軍人となり、東部戦線、第256歩兵師団の37ミリ対戦車砲の装填手として戦った。
同年2級鉄十字章を受章するも負傷、8か月間前線を離れた。
1943年6月、傷が癒えたのち第519重対戦車砲大隊に転属、同地で対戦車自走砲「ホルニッセ」と出会い戦車兵を志す。
同年8月、軍曹に昇進し、念願の「ホルニッセ」車長となった。初の実戦で戦車4両を破壊したが負傷、しかしその後小隊長に昇進した。
しかし1944年、兄たちが次々に戦死し、ナイグルは故郷に帰還することになった。ところがソ連軍の攻撃によりこれはとん挫、もともと前線に残りたかった彼は同地で戦い続けることを決心した。
この戦いでナイグルの車両はT34を相手に接近戦をおこない7両を破壊するも撃破された。かろうじて味方陣地に戻ったナイグル(ここから先は彼の記憶になく無意識のうちに行動したらしい)は、彼の部隊の残存兵と偶然居合わせた国防軍工兵伍長を残った最後の「ホルニッセ」に乗せ出撃。敵戦車部隊を全滅させた。最後の戦車を撃破した直後、彼は意識を失い倒れた。彼は工兵伍長にかつがれ病院に入院。この功績により同年7月騎士十字章が授与された。
その後西部戦線に転属となり、連絡係となった。
1945年3月、敵戦闘機の攻撃で負傷、そのまま終戦を迎える。
戦後は市役所へ就職し余生を過ごした。
独ソ戦開戦当初、相手はたかがイワンの馬鹿wとたかを括っていたドイツ軍はソ連戦車の強力さに泡を喰らう羽目になる。
あわててパンター&ティーガーの開発に着手するのだが、支援車両だって必要だ。
そこでT-34の装甲を貫ける自走砲として作られたのがナースホルンである。
どういう兵器かというと、対戦車自走砲の名が示すとおり、対戦車砲に車台を付けたもの。
つまり戦車ではなく自走できる対戦車砲であり、突撃砲や駆逐戦車とは似て非なる兵器である。
あくまで対戦車砲なので戦車と正面から撃ち合うことなど当然ながら設計思想には無い。
戦車以上の長射程と大火力、速度を頼みにした文字通りの高火力紙装甲。
まさに「やられる前にやれ」を体現した兵器である。
ゲーム内では分かりづらいがオープントップ、すなわち屋根がない上に、正面の防盾の厚みは僅か10mm。
戦車砲が当たれば一発であの世行きである。
こんなものでT-34やKV-1とやりあったナイグルさんマジ鉄心臓。
彼の手記によると、恐ろしくて逃げ出す乗員もいたとか。参考文献「Panzer For」
ちなみに当初はホルニッセ(雀蜂)と呼ばれていたが、ヒトラーが嫌がったのでナースホルン(犀)という名に変えられた。
しかし前線の兵士には変わらずホルニッセと呼ばれていたという。
たしかにこの兵器のイメージは犀などではなく雀蜂だ。
蝶のように舞い蜂のように刺す、を地で行く兵器なのである。
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Sd.Kfz.164"Nashorn"(ナースホルン)はドイツの対戦車自走砲。フェルディナンドと同じように、一回名前が変わった。 1941年にバルバロッサ作戦は始まった。しかし、KV-1やT-34などの防御力の高い戦車と交戦して、これらの重装甲戦車を撃破できる砲をもった対戦車自走砲が必要と考えた。 特に優れていたのが、"8.8cm Pak 43/1"専用弾薬である硬芯徹甲弾"Pzgr. 40/43"で、30度傾斜した装甲板に対しての貫通能力は1000m先で192mm、2000m先でも153mmと非常に高性能であった。 自走砲型は車体が延長され、エンジンも中央に移されている。 |
名称が変わったのは1944年2月27日である。
この頃には色々な改良が加えられた。
だが本車より防御力の優れたIV号駆逐戦車やヤークトパンターが登場し、車体がフンメルに回されると、生産数は落ちていった。
総生産数は1943年と1944年、1945年の生産分を合わせて494両である。
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