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ウェーヴェル のバックアップ(No.7)
CV:藤田茜 イラストレーター:あやめ 入手方法
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モデルはアーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェル。初代ウェーヴェル伯爵。
子爵に列せられたのは戦争中のことで生まれながらの貴族というわけではなかった。
1883年5月5日に陸軍少将アーチボルド・グラハム・ウェーヴェルの長男として誕生。
陸軍士官学校を出た後、ボーア戦争などに従軍。第一世界大戦の第二次イープルの戦いで左目を失う重傷を負う。なので本来は隻眼なのだが。
(ご本人の写真は後年も端正な顔つきなので、おそらく義眼をはめていたと思われる)
第二次世界大戦勃発前にはパレスチナ独立戦争の鎮圧にも参加するなど、歴戦の指揮官として名声があった。
1939年には中東駐留軍司令官としてエジプトのカイロに駐留する。
1940年、機甲師団の運用方法についてホバートと対立し、罷免する。
ホバートの唱える機甲師団の運用方法はドイツの電撃戦のような歩兵や航空機による支援を持たない、いわゆる「オールタンクドクトリン」に近いもので、
英軍内部では相当批判が高かったことが原因と思われる。
1940年8月にはリビアを支配するイタリア軍を先制攻撃せよ、とチャーチル首相から催促されるが、準備不足として拒否。
9月にグラツィアーニ率いるイタリア軍のエジプト侵攻が開始されるが、ギリシャ戦線でのイタリアの苦戦を見た後、コンパス作戦を発動。
砂漠における機動戦を熟知していたオコーナーによってイタリア軍は敗走し、キレナイカ地方を占領することに成功する。
ここで厄介なことに、北アフリカは優勢と判断したチャーチルによって兵力の一部をギリシャに引きぬかれてしまう。
戦力的に劣勢になった状態で、北アフリカに1941年2月、あのロンメルがドイツアフリカ軍団と共に到着する。
到着するや否や本国の指令を半ば無視して速攻に出るロンメルの前に、トブルク以外のキレナイカ地方を失陥。オコーナーも捕虜になった。
イギリス軍首脳部に急かされて実行した「ブレヴィティ作戦」の失敗、続いて400両の戦車の増援を受けた戦力による「バトルアクス作戦」もイギリス軍首脳とチャーチルの期待をよそに、ロンメルの後方浸透と機動戦に翻弄され、3日で攻勢が失敗。
ウェーヴェルの手腕に失望したチャーチルによって1941年6月21日、中東駐留軍司令官の地位を解任。後任にはオーキンレック大将が任じられた。
その後アジア方面に赴任しインド駐留軍司令官を経て、米英蘭豪司令長官として日本軍と戦うもシンガポール陥落など敗北を経験し、1943年から終戦後の1947年までインド総督を務めた。
1950年5月24日死去。
寡黙な性格で何も話さないため、しばしば会話の相手が困ったという。
負け続けのために、有能とは見られない将官ではあるが、彼の基本方針であった兵站の十分な確保による戦線の維持をもって、敵の機動戦に対抗するという防御戦術は、オーキンレックを経てモントゴメリーにより完成、遂にはロンメル率いるドイツアフリカ軍団を北アフリカから叩き出すことに成功するのであった。
1936年、イギリス軍は今後の戦車開発方針について、重装甲で歩兵を支援する歩兵戦車と、快速を活かした巡航戦車の二本立てでの開発を決定した。
そこで開発中のA9中戦車がひとまず巡航戦車というカテゴリに収まることになったが、高速移動に関してはやや疑問の残る性能であった。
同年9月、ソ連に「うちの陸軍見に来てよ!すっげーんだよ!」と秋季演習に招待されたイギリス軍は代表としてウェーヴェル将軍が訪問。
そこで彼はソ連の持つ近代的な快速戦車BT-5と完成したばかりのBT-7に大変な感銘を受ける。
国に戻ったウェーヴェルの報告を受けた軍は早速BT戦車のベースとなったクリスティー戦車の生みの親、クリスティー技師と連絡を取り、M1932戦車を購入。
さらにクリスティー本人も技術顧問として招き、新型巡航戦車Mk.Ⅲ(A13)を完成させた。
Mk.Ⅲは優れた高速性能を示したが、装甲は最大でも14mmと対戦車ライフルで容易に貫通可能な程度しかない。
軍はさすがにまずいと思い装甲強化型のMk.Ⅳを作るとともに、より発展させた新型巡航戦車の開発を指示。
これらは大戦中、クルセーダーやクロムウェル、コメット巡航戦車の系譜として発展していく。
Mk.Ⅲはフランス侵攻などで実戦投入されたが、その装甲の薄さはやはり問題でかなりの損害を受けた。
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