アホ のバックアップソース(No.1)
*元ネタ紹介 [#introduction]
マルッティ・ヨハンネス・アホ大佐(Martti Johannes Aho, 1896-1968)。
1918年のフィンランド内戦に志願して白衛軍として従軍。その後カレリアへの遠征軍に[[タルヴェラ]]等とともに参加。
帰国後は国境警備隊などを務めつつ、軍学校を出て士官となる。
スポーツ振興に熱心で、ホッケーリーグの審判を務めたり、自身も射撃大会で優勝するなどした。
冬戦争開戦時には中隊長として指揮を取り、カレリア地峡や北ラドガ方面でソ連軍と幾度と無く交戦、2度負傷する。
継続戦争が始まると連隊長となり、冬戦争以前の国境線へ押し戻す一連の戦いで功績を上げ、1942年に52番目となるマンネルヘイム十字章を受ける。
1944年6月にソ連がカレリア地峡で大攻勢を仕掛けると、アホの部隊もこれを防ぐため奮戦したが、大きな犠牲を出しアホ自身も負傷した。
このソ連の攻勢は結局国境線に食い込んだところで[[ラーッパナ]]率いる増援に撃退される。
9月にソ連と講和条約が結ばれると、国内のドイツ軍勢力との戦いを余儀なくされたフィンランド軍によりラップランド戦争が勃発。
当初穏便に勧められていた撤退は、ソ連や他の連合国の圧力もあり、より早急に、しかも国内からドイツを駆逐するという意図を持って示さなければならなくなり、
トルニオの戦いが勃発。フィンランド軍は3個師団と[[ラガス]]率いる機甲師団(中身は大隊規模)を送り、一応ドイツ軍を攻撃しているという姿勢を示した。
これをドイツに対する背信行為と捉えたドイツ軍はロヴァニエミの町へ焦土作戦を行ったが、住民は事前に通知を受けていたため町はもぬけの殻だった。
ラップランド戦争での功績を受けて、アホには2つ目のマンネルヘイム十字章が授与されている。
戦後はエヴァニエミなどの軍管区長を努め、49年からは予備役となっていくつかの民間会社で働いていた。
66年には完全に退役し、2年後に死去した。
#br
マンネルヘイム十字章を2度受章したのは、陸軍ではアホとパヤリの2名だけであり、全軍を通じても残りは空軍のユーティライネン([[ユーティライネン]]の弟)とハンス・ウィンドの4人だけである。

*コメント [#contemt]
#pcomment(,reply,10,)

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS