アーカート のバックアップソース(No.2)
*元ネタ紹介 [#introduction]
ロバート・エリオット・アーカート。1901年にロンドンで歯科医師を務めていたスコットランド人の息子として生まれる。
軍に入隊した時は第一次大戦も終わり、ハイランド軽歩兵師団に入隊、マルタ島に駐屯する。
同部隊で知り合った友人に、後に映画俳優として大成するデヴィット・ニーヴンがいた。
(ニーヴンは軍隊生活が肌に合わず程なく退役するが、自伝においてアーカートを「魅力と暖かさにあふれた思慮深い兵士だった」と回想している。)
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第二次世界大戦がはじまると、インドに赴任していたアーカートは北アフリカ戦線への補強のため第三歩兵師団に送られ、そこでシチリア島への侵攻までの間スピード出世を重ねる。
ところが出世はアーカートにとって必ずしもいいことばかりではなかった。
1944年、第一空挺師団長だったジョージ・ホプキンソン少将がイタリア戦線で戦死、後任を予定していたアーネスト・ダウン准将はインドで任務中だったため、
アーカートが急遽後任となる。
しかしアーカートは飛行機が大の苦手で空挺部隊の指揮などしたことがなく、演習中には飛行機酔いで散々だったという。
同年9月、この「飛行機酔いする空挺師団長」にマーケット・ガーデン作戦の大役が与えられアルンヘム確保のため降下したが、
ビットリッヒ率いる第二SS装甲師団の抵抗に会い、攻勢は頓挫。
アーカートは無線機が使えないため直接部隊と連絡を取ろうと自ら移動していたが、途中ドイツ軍に見つかり交戦、2日間行方不明となった。
マーケット・ガーデン作戦の[[「90%成功」>モントゴメリー]]により赤い悪魔と呼ばれた第一空挺師団は戦力の3/4を喪失し、以降の作戦参加は困難になった。
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1945年5月、かろうじて再編された第一空挺師団は、ドイツの降伏によりノルウェーに駐留するドイツ軍の武装解除を行い、ノルウェーから勲章を授与された。
その後1955年に軍を退役。
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1977年、マーケット・ガーデン作戦の映画化として遠すぎた橋のアドバイザーに招かれると、
彼は自身の役に友人のニーヴンを推薦したが、映画会社の意向もありショーン・コネリーが務めることになった。
アーカートはコネリーが演じる自分と、それを喜んでいるミーハーな娘を見て複雑だったという。
1988年、87歳で死去した。
**M116 75mm榴弾砲 [#x3a52d8e]
元々は山岳部隊での支援用として開発されたいわゆる「山砲」。アメリカ陸軍向けの装備として1927年に配備が始まったが戦間期だったため、開戦前は100門以下の生産数であった。
開戦後は大量生産が決定され5000門以上が生産される。
山砲は自動車の入れないような山岳地帯でも、分解して馬やロバなど荷駄に積載できるよう軽量でその分短射程、低威力である。
しかしこの特徴は重量制限の厳しい空挺部隊の装備にぴったりであったことからとくに重宝された。
陸上自衛隊でも長く運用されていた。

*コメント [#comment]
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