クラヴチェンコ のバックアップ差分(No.2)

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* 元ネタ [#introduction]
*元ネタ紹介 [#introduction]
アンドレイ・グリゴーリエヴィチ・クラヴチェンコ(またはクラフチェンコ)上級大将(1899-1963)。
1918年、赤軍と白軍が争うロシア内戦に農民の子だったクラヴチェンコも兵卒として参加。
内戦終結後、戦功を認められ軍学校・軍事アカデミーへ進学した後、狙撃連隊の参謀長に就任。
その後戦車学校の講師を務めると、冬戦争時には狙撃師団の参謀長となる。
冬戦争終了後は戦車師団の参謀長となり、独ソ戦に突入。
モスクワ防衛戦を切り抜けた後、1942年3月に[[カツコフ]]率いる第一戦車軍団の参謀長となる。
4ヶ月後に第二戦車軍団長、更に2ヶ月後には第四戦車軍団長となってスターリングラード攻防戦に参加。
その後も東部戦線の各地で戦い、ウクライナ開放の功績としてソ連邦英雄勲章を授与される。
1944年には第六戦車軍司令官としてドイツ降伏まで戦った後、6月にはモンゴルのザバイカル戦線に送られ、対日戦線に参加し二度目の英雄勲章を授与される。
戦後も10年間軍に務めた。

**KV-85 [#e1fcca34]
独ソ戦開戦当初、その圧倒的な重装甲と火力でドイツ軍を震え上がらせたKV-1戦車であったが、一方で欠点も多かった。
T-34と同じ主砲ゆえ火力は変わらず、重装甲からくる超重量ゆえ運用が難しく機械的な信頼性の低さもあって故障が頻発。
更にドイツ軍が鹵獲したF-22師団砲や新装備の7.5cm対戦車砲、これらを装備した自走砲などを投入してくると、重装甲という優位性が薄れ始める。
対策としてKV-1にボルト止め装甲を追加したKV-1E、更に基本装甲そのものを増加装甲分と同じだけ増やした1942年型が配備されると、
重量はますます増加し稼働率もどんどん低下する悪循環を招いた。
これの解決策として車体最大装甲厚105mm、砲塔120mmまで増加していた装甲を82mmまで削ったKV-1Sが開発されたが、
重装甲戦車から装甲を取っ払うという本末転倒な改良により最大の特徴も失われ、極めて半端な存在になってしまった。
そこでソ連軍はKV戦車の発展を諦め、足回りに支障が出ないギリギリの範囲である45tという重量制限を課した中で精一杯の重戦車を製造することに決定。
後のIS-1、そしてIS-2へ繋がる戦車の試作が始まった。
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一方、ドイツ軍の新型重戦車が戦線に登場したことで、既存の76mm砲は火力不足が明らかとなり、高射砲を改良した新型の85mm砲を戦車に搭載することが決定した。
KV-1も火力強化の一環として一度搭載がテストされたが、砲塔が狭すぎてとても運用できず一旦諦められていた。
しかしこの新型砲を搭載するT-34の後継戦車T-43に製造を切り替えると戦車の製造台数は一時的にかなり落ち込むことになり、
IS-1は製造に手間取ってしばらく生産開始できなかった。
結局T-43は開発中止され、T-34に大型砲塔を装着できるよう改良されることになったが、これは少なくとも1943年中には完成しないという見通しとなった。
IS-1も量産開始は少なくとも10月まで行えない。
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もはや頼りになるのは生産ラインの空いているKV-1しかない!
KV-1Sのターレットリングを強引に拡大し(これによりKV-85はちょっと胴体上部側面に膨らみがある)、IS-1と同じ砲塔を無理やりねじ込んだ試作戦車KV-85は1943年7月に完成。
その時点で唯一の85mm砲搭載戦車として量産が開始され、1943年9月から11月までの極短期間に143両が製造され戦場へ出ていった。
10月にはIS-1の生産も平行して始まったが、いざ実践に投入してみると85mm砲は500mまで接近しないとティーガーやパンターを正面から撃破できないことが判明。
中戦車のT-34はともかく重戦車のISに求められる火力はこれでは足らず、IS-2の開発に繋がることになる。
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KV-85はそれ以上生産されることもなく、終戦までに殆どが損耗したが、最後まで戦い続けた。

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