グラツィアーニ のバックアップ差分(No.1)

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*元ネタ紹介 [#introduction]
初代ネゲッリ侯ロドルフォ・グラツィアーニ元帥。(1882年 - 1955)
イタリア軍の重鎮のひとりとして知られている。
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医者の家に生まれ、両親の意向で神学校に通わされていたが、思うところあって軍人になることを決意。
士官学校を卒業後、赴任先の北アフリカで毒蛇に噛まれ1年入院するなど不幸もあったが、オスマン・トルコ帝国との戦争で軍功を上げ大尉に昇進。
第一次世界大戦では各地の戦いで活躍し、36歳という異例の若さで大佐になった。
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戦後、賠償金を取れず不安定になる国内情勢に危機感を持ち、社会党・共産党勢力に反対する退役軍人が多く所属したファシズムを支持し始める。
この思想は第二次大戦中も一切変わらず、グラツィアーニの運命を左右した。
オスマン・トルコから割譲した3つの植民地州(今のリビア)の治安回復活動に従事し、抵抗勢力に対して徹底した武力鎮圧を行った。&color(Silver){ええ~? 私は、全然、残虐なんかじゃないですよ~};
またその過程で軍の機械化を積極的に推進している。
特に抵抗の強かったリビア南部フェザーンでは激しい戦闘と徹底した反対勢力の弾圧により、「フェザーンの屠殺者」の渾名を頂戴した。&color(Silver){あだ名は、可愛いのがいいな~};
その後、第二次エチオピア戦争で部隊を指揮しイタリア軍の勝利に貢献する。
しかしこの戦いは当初の総司令官デ・ボーノ元帥が消極的であると更迭され、
代わりにやってきたパドリオ元帥は毒ガスまで用いてグラツィアーニと別方面から強行し、首都を制圧してしまった。
手柄をほぼ横取りされた形のグラツィアーニに対し、サヴォイア家からはネゲッリ侯の地位を与えられたが、一節によればこの件でパドリオと不仲になったとも言われる。
その後東アフリカ帝国の副王を務めたパドリオの後任として第二代副王に就任。リビア同様の武力統治を行いここでも屠殺者と渾名される。&color(Silver){あだ名は、可愛いのがいいな~};
アオスタ公の3代目副王就任により本国に帰還。参謀総長に推挙される。
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ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が開戦すると、対独協力の姿勢から参戦に前向きなムッソリーニに対し、
軍備の整わない実情を把握しているグラツィアーニやパドリオは開戦に強く反対。
しかしドイツの西方電撃戦を見たムッソリーニは、電撃戦という、軍の短期的な集中運用であれば、イタリアも同様に戦争に勝つことが可能と考え、
ドイツからの強い要望もあって参戦を強行してしまう。
グラツィアーニは古巣リビアで英国領エジプトへの侵攻作戦を実行したが、輸送トラックをはじめとする自動車不足による兵站の限界もあり、
作戦目標であったメルサマトルーの後方、シディ・バラニで攻勢限界に達してしまう。
グラツィアーニは必死にインフラ整備を行いながら本国に増援を要請し続けたが、気まぐれなムッソリーニはさらにギリシャ方面でも戦端を開き、
増援要請は無視された。
攻勢限界であることを見抜いた英軍は反攻作戦「コンパス」を発動し、総司令官[[ウェーヴェル]]、第8軍司令官[[オコーナー]]らの近代的な機甲部隊運用もあって、
イタリア軍を押し戻し、逆にキレナイカ地方まで押しこむという大戦果を上げる。
ペダ・フォムの戦いでも虎の子の機甲部隊を[[プロー]]率いる英軍機甲部隊に壊滅させられ、10万人以上の損害を出した責任を取り、
グラツィアーニはすべての職を辞し、軍を退役した。
結局彼が渇望した機甲師団は、彼の辞任後の[[ロンメル]]率いるドイツアフリカ軍団の到着を待たねばならなかった。
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退役後は軍に関わることもなく過ごしていたが、戦局が悪化しファシスト党とムッソリーニへの不信が高まる中でも支持を変えなかった。
その後イタリアが南部王国政府と北部の社会共和国に分裂し、南部側にパドリオ、[[メッセ]]らが付いたのに対し、
ドイツ軍が救出したムッソリーニ率いる社会共和国政府側に参加を表明。
社会共和国成立時に一時首都を放棄して逃走した南部王国政府とパドリオ元帥の支持は低く、北部と南部の対立は実質グラツィアーニとメッセの戦いでもあった。
ヒトラーの自決後、ドイツの降伏に先立つこと4日前、イタリア社会共和国側のドイツ軍も降伏しイタリア国内の戦争はついに終わった。
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戦後グラツィアーニは戦争犯罪やファシスト政権支持などの罪を問われ禁錮19年の判決を受けたが、西側の反共政策など複雑な事情と、
国民に比較的人気の高かったこともあって恩赦が下り、1952年に釈放されるとローマの東にあるアッフィーレに自宅を構え、精力的に政治活動を行った。
彼に限らず全体的に緩いイタリアに対する処分に、「屠殺者」の占領下にあったエチオピアは怒り狂ったが、イギリスの圧力やエリトリアとの係争のため国連への提訴は断念せざるを得なかった。
釈放3年後の1955年に亡くなったが、地元アッフィーレでは名士として慕われ、2012年に記念碑が設立された。

*コメント [#contemt]
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