ゴリアン のバックアップの現在との差分(No.17)
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▼ | 長すぎる説明 |
ヤン・ゴリアン中将*1はチェコスロバキア軍の将校である。 1906年1月26日にハンガリーはトルナ県ドムボワル市在住のスロバキア人家庭に生まれる。1921年からブラチスラヴァにある高等工業学校*2に通い、25年に卒業。同年にフラニツェ*3の士官学校*4に入学。1927年に卒業し砲兵中尉に任官。そして大尉昇進から約一ヶ月後の1937年3月よりプラハの陸軍大学校に入学、1938年5月に卒業。世に名高いミュンヘン会談の四ヶ月前のことである。会談当時の配置はスロバキア南部バンスカービストリツァ所在の第10師団参謀部第2部*5長であった。チェコスロバキア解体後の1939年12月15日にスロバキア軍参謀として復帰、少佐に昇進。 1941年7月25日、同日付で快速旅団*6から拡大改編*7され、師団編成となった快速師団*8初代参謀長に任官。バルバロッサ作戦が発動された約一ヶ月後のことである。 快速旅団に配備されていた「OA vz.30」は改編により全て回収されたと思われる(後述)。 41年11月16日、師団参謀長の任をアロイズ・バレイ*9(Alojz Ballay)中佐に引き継ぎ本国へ帰還。 42年1月28日、トレンチーン市所在の第1師管区*10司令部*11初代参謀長に任官し同年6月29日まで同配置に就く。 43年2月1日、中佐に昇進し3月4日より再び快速師団*12の参謀長(5代目)に任官。4月27日まで同配置。 44年1月1日、地上軍司令部*13参謀長に任官。 地上軍司令部の指揮下にあるRota pancéřových automobilů 11(1940/10/1-1944/8/30)はOA vz.30を装備する部隊である。同部隊は44年当時残存していたOA vz.30を全て管理していたと思われる(後述)。 44年8月29日、大佐に昇進し翌日参謀長の任を離れる。8月31日、在スロバキア・チェコスロバキア軍*14司令官に任官。公式にはこの時を以て「蜂起軍司令官」とするべきであろう。9月5日、スロバキア全国評議会(SNR)より准将に任命され、同月10日に在スロバキア・チェコスロバキア軍が在スロバキア第1軍*15へ改編されると同時に同軍司令官に任官。 従って「9月7日にヴィエスト将軍へ指揮権を移譲」とするのは誤りである(後述)。 10月6日、第2チェコスロバキア独立落下傘旅団*16と共にルドルフ・ヴィエスト少将がスロバキアに到着。それを受け10月7日ヴィエスト少将と在スロバキア第1軍司令官を交代し、在スロバキア第1軍陸軍司令*17に任官したとされる。確かに在スロバキア第1軍は第1チェコスロバキア独立戦闘機連隊を指揮下においており、これを除く地上部隊指揮官としての役職(実質的な次席指揮官)であると考えれば矛盾は無いと思われる。そして、そもそもチェコスロバキア軍に「副指揮官」なる制度、役職は存在しない。11月3日、捕虜となり45年某月某日に処刑されたとされる。 1946年10月26日、少将*18に特進。 1969年8月1日、中将*19に特進し、これにより二階級特進となった。 |
▼ | 展開 |
乗員数 3名 (車長兼銃塔銃手、第二銃手、運転手) 車体重量 0.78t 全備重量 2.55t 全長 4020mm 全幅 1520mm 全高 2020mm Obrněný automobil vzor 30 (Armoured Car Model 30)は戦間期にチェコスロバキアで生産された6輪軽装甲車。 スロバキアは独立時に18両を接収し、スロバキア-ハンガリー戦争、ポーランド侵攻、東部戦線などで使用した。 1943年にはスロバキア国内に撤収し、以降は倉庫で保管状態となる。 1944年のスロバキア民衆蜂起で少数が使用されたとの説もあるが、詳細は不明。 発動機 Tatra typ 72 同仕様 空冷ガソリン、1910cc、31hp 駆動系 6×4 燃料 56L 燃費 20L/100km 速度(整地) 60km/h (不整地) 10-15km/h 航続(整地) 200km (不整地) 150km 武装 ZB vz.26LMG×3 ( 銃塔1、車体前部1、車内1*20 ) LMG用弾薬3000発(1挺宛1k発乃至1.5k発) Vz.21手榴弾×18 Vz.30信号拳銃 装甲厚 前部 6-12mm 側面 6mm 銃塔 10mm |
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