ヤン・ゴリアン中将*1はチェコスロバキア軍の将校である。 1906年1月26日にハンガリーはトルナ県ドムボワル市在住のスロバキア人家庭に生まれる。1921年からブラチスラヴァにある高等工業学校(Vyššia priemyselná škola strojnícka)に通い、25年に卒業。同年にフラニツェ*2の士官学校(Vojenské akademie Hranice)に入学。 1927年に卒業し砲兵中尉に任官。そして大尉昇進から約一ヶ月後の1937年3月よりプラハの陸軍大学校に入学、1938年5月に卒業。世に名高いミュンヘン会談の四ヶ月前のことである。会談当時の配置はスロバキア南部バンスカービストリツァ所在の第10師団参謀部第2部*3長であった。 チェコスロバキア解体後の1939年12月15日にスロバキア軍参謀として復帰、少佐に昇進。 1941年7月25日、同日付で快速旅団(Rychlá brigáda)から改編された快速師団*4(Rychlá divise)初代参謀長に任官。バルバロッサ作戦が発動された約一ヶ月後のことである。 快速旅団に配備されていた「OA vz.30」は改編により全て回収されたと思われる(後述)。 41年11月16日、師団参謀長の任をアロイズ・バレイ*5(Alojz Ballay)中佐に引き継ぎ本国へ帰還。 42年1月28日、トレンチーン市所在の第1師管区司令部*6(Velitelství divisní oblasti 1)初代参謀長に任官し同年6月29日まで同配置に就く。 43年2月1日、中佐に昇進し3月4日より再び快速師団*7の参謀長(5代目)に任官。4月27日まで同配置。 44年1月1日、地上軍司令部(Velitelství pozemního vojska)参謀長に任官。 地上軍司令部の指揮下にあるRota pancéřových automobilů 11(1940/10/1-1944/8/30)はOA vz.30を装備する部隊である。同部隊は44年当時残存していたOA vz.30を全て管理していたと思われる(後述)。
44年8月29日、大佐に昇進し翌日参謀長の任を離れる。8月31日、在スロバキア・チェコスロバキア軍(Československá armáda na Slovensku)司令官に任官。公式にはこの時を以て「蜂起軍司令官」とするべきであろう。9月5日、スロバキア全国評議会(SNR)より准将に任命され、同月10日に在スロバキア・チェコスロバキア軍が在スロバキア第1軍(1. československá armáda na Slovensku)へ改編されると同時に同軍司令官に任官。 従って「9月7日にヴィエスト将軍へ指揮権を移譲」とするのは誤りである(後述)。 10月6日、第2チェコスロバキア独立落下傘旅団(2. československá samostatná paradesantní brigáda)と共にルドルフ・ヴィエスト少将がスロバキアに到着。それを受け10月7日ヴィエスト少将と在スロバキア第1軍司令官を交代し、在スロバキア第1軍陸軍司令(Velitele armády)に任官したとされる。確かに在スロバキア第1軍は第1チェコスロバキア独立戦闘機連隊を指揮下においており、これを除く地上部隊指揮官としての役職(実質的な次席指揮官)であると考えれば矛盾は無いと思われる。そして、そもそもチェコスロバキア軍に「副指揮官」なる制度、役職は存在しない。11月3日、捕虜となり45年某月某日に処刑されたとされる。 1946年10月26日、少将(Divisní generál in memoriam)に特進。 1969年8月1日、中将(generálplukovník in memoriam)に特進。
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