ゴリアン のバックアップの現在との差分(No.7)


[箇条書き]
キャラクター名
型式OA vz.30兵科機械化歩兵
画像装備欄
空きスロット
空きスロット(改)
---
ステータス
No.083No.???
★☆☆☆☆☆☆☆☆☆
体力19(?)/??(?)/?
火力18(23)/??(?)/?
命中45(51)/??(?)/?
装甲11(11)/??(?)/?
回避30(30)/??(?)/?
対空5(7)/??(?)/?
偵察26(26)/??(?)/?
Lv1裸(Lv1初期装備込み)/改LvMAX強化MAX裸
占領優→優
燃料7/52(?)?/?(?)
弾薬6/52(?)?/?(?)
1戦分の通常消費量/Lv1容量(改LvMAX)
改良・昇格
改(Lv20)
昇(Lv??)?
図鑑説明
スロバキア独立国の参謀長として、東部戦線に出征したんだよ。
ドイツの言いなりになるふりをしてたけど、国の誇りを捨てられないのはみんな同じ。
笑顔で従いながら牙を研いで、民衆と一緒に蜂起したの。
結果はともかく、誇りのために戦う姿勢は大事だもんねっ!

ゴリアン仮1.png

ゴリアン仮2.png

入手方法 Edit


名称:ゴリアン

国籍:スロヴァキア

兵科:機械化歩兵

兵器:OA vz.30

CV:近藤玲奈

イラスト:パパ・ネネ

ドロップもしくは探索

セリフ一覧 Edit

 クリックで展開

元ネタ Edit


ヤン・ゴリアン(Ján Golian)*1906/1/26 †1945/?/?

ヤン・ゴリアン中将*1はチェコスロバキア軍の将校である。
1906年1月26日にハンガリーはトルナ県ドムボワル市在住のスロバキア人家庭に生まれる。1921年からブラチスラヴァにある高等工業学校*2に通い、25年に卒業。同年にフラニツェ*3の士官学校*4に入学。1927年に卒業し砲兵中尉に任官。そして大尉昇進から約一ヶ月後の1937年3月よりプラハの陸軍大学校に入学、1938年5月に卒業。世に名高いミュンヘン会談の四ヶ月前のことである。会談当時の配置はスロバキア南部バンスカービストリツァ所在の第10師団参謀部第2部*5長であった。チェコスロバキア解体後の1939年12月15日にスロバキア軍参謀として復帰、少佐に昇進。
1941年7月25日、同日付で快速旅団*6から拡大改編*7され、師団編成となった快速師団*8初代参謀長に任官。バルバロッサ作戦が発動された約一ヶ月後のことである。

 快速旅団に配備されていた「OA vz.30」は改編により全て回収されたと思われる(後述)。
41年11月16日、師団参謀長の任をアロイズ・バレイ*9(Alojz Ballay)中佐に引き継ぎ本国へ帰還。
42年1月28日、トレンチーン市所在の第1師管区*10司令部*11初代参謀長に任官し同年6月29日まで同配置に就く。
43年2月1日、中佐に昇進し3月4日より再び快速師団*12の参謀長(5代目)に任官。4月27日まで同配置。
44年1月1日、地上軍司令部*13参謀長に任官。

 地上軍司令部の指揮下にあるRota pancéřových automobilů 11(1940/10/1-1944/8/30)はOA vz.30を装備する部隊である。同部隊は44年当時残存していたOA vz.30を全て管理していたと思われる(後述)。

 44年8月29日、大佐に昇進し翌日参謀長の任を離れる。8月31日、在スロバキア・チェコスロバキア軍*14司令官に任官。公式にはこの時を以て「蜂起軍司令官」とするべきであろう。9月5日、スロバキア全国評議会(SNR)より准将に任命され、同月10日に在スロバキア・チェコスロバキア軍が在スロバキア第1軍*15へ改編されると同時に同軍司令官に任官。

 従って「9月7日にヴィエスト将軍へ指揮権を移譲」とするのは誤りである(後述)。
10月6日、第2チェコスロバキア独立落下傘旅団*16と共にルドルフ・ヴィエスト少将がスロバキアに到着。それを受け10月7日ヴィエスト少将と在スロバキア第1軍司令官を交代し、在スロバキア第1軍陸軍司令*17に任官したとされる。確かに在スロバキア第1軍は第1チェコスロバキア独立戦闘機連隊を指揮下においており、これを除く地上部隊指揮官としての役職(実質的な次席指揮官)であると考えれば矛盾は無いと思われる。そして、そもそもチェコスロバキア軍に「副指揮官」なる制度、役職は存在しない。11月3日、捕虜となり45年某月某日に処刑されたとされる。
1946年10月26日、少将*18に特進。
1969年8月1日、中将*19に特進し、これにより二階級特進となった。

Ján Golian, 1906年1月26日 - 1945年?

スロバキアの軍人。

第二次大戦中はスロバキア軍で参謀職を歴任した後、1944年8月のスロバキア民衆蜂起の指導者のうちのひとりとなる。

1944年11月3日にドイツの捕虜となり、以後の消息は不明。フロッセンビュルク強制収容所で処刑されたとの説がある。


胸の勲章は、1940年にチェコスロバキア亡命政府により制定され、主にナチスに対する抵抗に貢献した人物に贈られた、

Československý válečný kříž 1939–1945 (Czechoslovak War Cross 1939–1945)であると思われる。

*OA vz.30

独軍での名称がPz. Spw. 30(t)とされるこの軽装甲車の性能は以下の通りである。
 展開

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • ちょっと元ネタ紹介が寂しいかなァ?まァ、書き足すからには本気でやろうか!そっちのほうが楽しいだろ!?ハハハハハッァ! -- ヤクモ? 2018-05-06 (日) 16:32:55
    • ここはWIKIなので、元ネタ紹介が寂しいと思ったら誰でも編集できますよ -- 2018-05-10 (木) 08:19:20
    • あぁぁいしてるんだぁぁぁぁ君たちをぉぉぉぉ!
      ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! -- ヤクモ? 2018-06-22 (金) 15:28:03
  • ゴリアン ★1 No.83 機歩/OA vz.30 体力19 火力23(18) 命中51(45) 装甲11 回避30 対空7(5) 偵察26 占領優 燃弾52 装備スロット数2:ブルーノZB26軽機関銃2(火力+5 命中+6 対空+2) -- 2019-03-29 (金) 15:08:16
  • まぁ…wikiだから誰でも編集出来るのは百も承知なんだが、削る必要ありますかね?戻しますよ?
    (例えばOA vz.30のスペックは複数のソースで確認したある程度信頼できるデータなので問題ないと考えたし、もし信頼できないと思って消したなら代わりのデータを上げるべきだと思う。邪魔と言うなら格納していたから邪魔では無いと言いたい) -- ヤクモ? 2019-11-19 (火) 07:33:59
    • 追記。本文のほうにしたって、チェコスロバキア軍人時代の経歴を全部カットしているじゃないか?個人が調べたことだから100%正しいとは言わないがね、削るなら削るなりに削る根拠を示して欲しいね?どこが間違っているだとか。それじゃなきゃ単に改悪しただけにしか見えませんが。 -- ヤクモ? 2019-11-19 (火) 07:40:40
  • 自分の力作エッセイ消されてお怒りの復活だー。誰も必要としていないところで行われるマニアの知識ひけらかしは醜いなー。 -- 2019-11-19 (火) 15:31:40
お名前:

  URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

*1 現役時の最終階級は准将
*2 Vyššia priemyselná škola strojnícka
*3 フラニツェ・ナ・モラヴィエは非公式な名称であり、当地の駅名である
*4 Vojenské akademie Hranice
*5 師団情報参謀か?
*6 Rychlá brigáda
*7 以前と比べ2個自動車化歩兵連隊基幹に「拡大」された旅団戦闘団を師団と言えるならば
*8 Rychlá divise
*9 後にある重要なポストに就いた。彼/彼女も登場するのでは?
*10 3個歩兵連隊、1個砲兵連隊、1個工兵/通信/騎兵捜索各大隊、1個対戦車砲中隊…という見慣れた編成
*11 Velitelství divisní oblasti 1
*12 42年11月より第13小隊(Letka 13)が編入されている
*13 Velitelství pozemního vojska
*14 Československá armáda na Slovensku
*15 1. československá armáda na Slovensku
*16 2. československá samostatná paradesantní brigáda
*17 Velitele armády
*18 Divisní generál in memoriam
*19 generálplukovník in memoriam
*20 写真からも分かるが決して車体に装備されている訳では無い。設計時の想定運用が歩兵支援である事から戦場到着後にこれを降ろし、歩兵に「貸す」為の装備では無いかと思われるが、現時点では用途を説明する資料はなく、そもそも車載の2挺のみを装備とする説明が多い。これは実際は定数である3挺目を搭載しない運用が多かった為だと考えられる。

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS