ゴリアン のバックアップソース(No.8)
[箇条書き]

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名称:ゴリアン
国籍:スロヴァキア
兵科:機械化歩兵
兵器:OA vz.30
CV:近藤玲奈
イラスト:パパ・ネネ

* 元ネタ [#x02bfc9d]
ヤン・ゴリアン(Ján Golian)*1906/1/26 †1945/?/?

ヤン・ゴリアン中将((現役時の最終階級は准将))はチェコスロバキア軍の将校である。&br;1906年1月26日にハンガリーはトルナ県ドムボワル市在住のスロバキア人家庭に生まれる。1921年からブラチスラヴァにある高等工業学校((Vyššia priemyselná škola strojnícka))に通い、25年に卒業。同年にフラニツェ((フラニツェ・ナ・モラヴィエは非公式な名称であり、当地の駅名である))の士官学校((Vojenské akademie Hranice))に入学。1927年に卒業し砲兵中尉に任官。そして大尉昇進から約一ヶ月後の1937年3月よりプラハの陸軍大学校に入学、1938年5月に卒業。世に名高いミュンヘン会談の四ヶ月前のことである。会談当時の配置はスロバキア南部バンスカービストリツァ所在の第10師団参謀部第2部((師団情報参謀か?))長であった。チェコスロバキア解体後の1939年12月15日にスロバキア軍参謀として復帰、少佐に昇進。&br;1941年7月25日、同日付で快速旅団((Rychlá brigáda))から拡大改編((以前と比べ2個自動車化歩兵連隊基幹に「拡大」された旅団戦闘団を師団と言えるならば))され、師団編成となった快速師団((Rychlá divise))初代参謀長に任官。バルバロッサ作戦が発動された約一ヶ月後のことである。
 &color(Gray){快速旅団に配備されていた「OA vz.30」は改編により全て回収されたと思われる(後述)。};&br;41年11月16日、師団参謀長の任をアロイズ・バレイ((後にある重要なポストに就いた。彼/彼女も登場するのでは?))(Alojz Ballay)中佐に引き継ぎ本国へ帰還。&br;42年1月28日、トレンチーン市所在の第1師管区((3個歩兵連隊、1個砲兵連隊、1個工兵/通信/騎兵捜索各大隊、1個対戦車砲中隊…という見慣れた編成))司令部((Velitelství divisní oblasti 1))初代参謀長に任官し同年6月29日まで同配置に就く。&br;43年2月1日、中佐に昇進し3月4日より再び快速師団((42年11月より第13小隊(Letka 13)が編入されている))の参謀長(5代目)に任官。4月27日まで同配置。&br;44年1月1日、地上軍司令部((Velitelství pozemního vojska))参謀長に任官。
 &color(Gray){地上軍司令部の指揮下にあるRota pancéřových automobilů 11(1940/10/1-1944/8/30)はOA vz.30を装備する部隊である。同部隊は44年当時残存していたOA vz.30を全て管理していたと思われる(後述)。};
 44年8月29日、大佐に昇進し翌日参謀長の任を離れる。8月31日、在スロバキア・チェコスロバキア軍((Československá armáda na Slovensku))司令官に任官。公式にはこの時を以て「蜂起軍司令官」とするべきであろう。9月5日、スロバキア全国評議会(SNR)より准将に任命され、同月10日に在スロバキア・チェコスロバキア軍が在スロバキア第1軍((1. československá armáda na Slovensku))へ改編されると同時に同軍司令官に任官。
 &color(Gray){従って「9月7日にヴィエスト将軍へ指揮権を移譲」とするのは誤りである(後述)。};&br;10月6日、第2チェコスロバキア独立落下傘旅団((2. československá samostatná paradesantní brigáda))と共にルドルフ・ヴィエスト少将がスロバキアに到着。それを受け10月7日ヴィエスト少将と在スロバキア第1軍司令官を交代し、在スロバキア第1軍陸軍司令((Velitele armády))に任官したとされる。確かに在スロバキア第1軍は第1チェコスロバキア独立戦闘機連隊を指揮下においており、これを除く地上部隊指揮官としての役職(実質的な次席指揮官)であると考えれば矛盾は無いと思われる。そして、そもそもチェコスロバキア軍に「副指揮官」なる制度、役職は存在しない。11月3日、捕虜となり45年某月某日に処刑されたとされる。&br;1946年10月26日、少将((Divisní generál in memoriam))に特進。&br;1969年8月1日、中将((generálplukovník in memoriam))に特進し、これにより二階級特進となった。

*OA vz.30 [#k8a9375c]
独軍での名称がPz. Spw. 30(t)とされるこの軽装甲車の性能は以下の通りである。
#region(展開)

  乗員数 3名 (車長兼銃塔銃手、第二銃手、運転手)
 車体重量 0.78t
 全備重量 2.55t
   全長 4020mm
   全幅 1520mm
   全高 2020mm

  発動機 Tatra typ 72
  同仕様 空冷ガソリン、1910cc、31hp
  駆動系 6×4
   燃料 56L
   燃費 20L/100km
速度(整地) 60km/h
 (不整地) 10-15km/h
航続(整地) 200km
 (不整地) 150km

   武装
      ZB vz.26LMG×3 ( 銃塔1、車体前部1、車内1((写真からも分かるが決して車体に装備されている訳では無い。設計時の想定運用が歩兵支援である事から戦場到着後にこれを降ろし、歩兵に「貸す」為の装備では無いかと思われるが、現時点では用途を説明する資料はなく、そもそも車載の2挺のみを装備とする説明が多い。これは実際は定数である3挺目を搭載しない運用が多かった為だと考えられる。)) )
      LMG用弾薬3000発(1挺宛1k発乃至1.5k発)
      Vz.21手榴弾×18
      Vz.30信号拳銃
  装甲厚
   前部 6-12mm
   側面 6mm
   銃塔 10mm

#endregion

 1926年、軍はタトラT-26/30の耐久性に目を付け、このシャシーから装甲車を開発させた。翌27年から28年に掛けて試験したが装甲厚がわずか3-8mmであった為に採用されず、改良が続けられた。そして33年、後にOA vz. 30と呼ばれる試作車が完成。この試作車のモデルは遂に軍に採用され、34年1月から量産型が(タトラT-72シャシーを利用して)生産開始((33年8月とするものもある))され、35年6月((同じく34年3月の異説あり))までに51両((内1両は試作車と数える資料もあるが、34年からの生産数が51両とされる事から試作車含めて52両生産が正確な数字だと思われる))が生産された。
 軍はOA vz. 27の補助戦力と考えいたようだが、運用の詳細は不明である。少なくとも3両1個小隊の編成を取っていたのは確かなようだ。
 チェコスロバキア軍によって戦闘で使用された記録は非常に少ない。その内の一つは、「39年にカルパート・ウクライナ(ことカルパティア・ルテニア)へ侵入したハンガリー軍との交戦に投入された」が最終的には15両((39年時の残存数を見る限り正確な数字とは考えられない))が撃破され、また(別の?)1両はハンガリー軍に鹵獲されたとされる。
 別の事例では「39年3月15日、第8歩兵連隊第3大隊第12機関銃中隊((本来なら第3大隊は第7-9中隊で構成される筈である。誤記か、臨時に編入されていたのかは不明))に配備されていたOA vz.30がKarel Pavlik大尉の指揮下で独軍と交戦」したと云うもので、最終的には随伴のSdkfz.222に撃破されたようである。
 その後、30両はドイツ軍に鹵獲され、スロバキア軍は18両((19両とする説もある))を装備した。この18両は早速、スロバキア・ハンガリー戦争に投入されて1両が撃破されたとされる。
 41年6月24日1個小隊3両は快速部隊に編入され、7月8日に快速旅団に再編されるともう2両追加させた。「7月23日、Lipovecの赤軍第44山岳師団との戦闘において1両((車両番号13.403))撃破、2両大破(理由は地雷か)の損害を受けた」為、8月上旬((8月25日と思われる))に全て後送される。この事から7月25日の快速師団への改編の際に編成から外れたと思われる。
1個中隊6両は保安師団((後の第2師団))所属として投入され、42年((11月8日に2両がパルチザンにより撃破されたとされる。車両番号は13,399と13,411))「11月9日にBagar中尉指揮下の4台のOA vz.30によって補強されたスロバキア部隊は強い抵抗に会った。結果、OA vz.30を3両失い撤退を余儀なくされた。装甲車に加えて、Bagar中尉を含む乗員4名を失う。さらに2ヶ月間ベラルーシに滞在した後、1943年1月12日の残りの装甲車はスロバキアに戻った」。
 その後国内に回収され、蜂起で使用するために前線への復帰を遅らせたようだ。そして44年8月29日現在、13両((記録通り6両撃破された結果として16から13両に減ったか、撃破されたとする6両中1両は後送されて18が13両に減ったかは不明))が保管されていたが何れも稼働状態では無かったようだ。そして蜂起軍が回収する前に独軍に回収され5両が(戦闘に使えない為に)射撃の的にされたとも、無事蜂起に投入されたとも伝えられる。

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