サモヒン のバックアップ差分(No.1)

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*元ネタ紹介 [#introduction]
ソ連軍戦車エース、コンスタンチン・ミハーイロヴィチ・サモヒン。
キエフの戦車学校を卒業し、本人の台詞にもあるように冬戦争に参加して負傷している。
大祖国戦争の開戦時は[[ラヴリネンコ]]と同じ第15戦車師団に所属、BT-7の戦車長だった。
1941年11月からは[[カツコフ]]率いる第4戦車旅団に合流、T-34-76に搭乗して活躍したがまたも負傷。
この期間の功績でサモヒンはレーニン勲章を受章、第4戦車旅団も第1親衛戦車旅団に改称された。
1942年2月22日スモレンスク戦区にて戦死。上級大尉への昇進をカツコフが祝したその日の夜のことだった。
**BT-7 [#w8326009]
戦間期にアメリカ人技術者のクリスティーが開発した戦車は本国では殆ど使用されなかったが、ソ連ではその快速性能に着目して数両を輸入、国産化した。それがBTシリーズである。
BTとは高速戦車という程度の意味で、これらは先祖にあたるクリスティー戦車と同じく履帯を外して装輪走行することが可能というのが特徴だった。
最初に成功を収めた量産型はBT-5で、当時としては強力な45mm砲の威力はスペイン内戦などで諸国に衝撃を与えた。BT-7はその発展改良型になる。
ノモンハン事件で初めて実戦に登場した本車は、エンジンの強化以外はBT-5と比べてこれといって大きな変更点はない。なお、日本軍の対戦車砲による攻撃では大きな被害を出しているが、火炎瓶による肉薄攻撃で多数が炎上したというのは誤りである。
貧弱な装甲はBT-7の泣き所であり、1937年型からは装甲板を傾斜させた新型の砲塔が採用された。このデザインは後のT-34にも受け継がれている。
大祖国戦争の開戦時、大量に配備されていたBT-7は非力な体に鞭打って戦ったが、搭乗員の技量の低さもあり多数が撃破され失われた。


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