ジロー のバックアップ(No.1)

元ネタ紹介 Edit

アンリ・オノレ・ジロー大将(1879 - 1949)。
第一次世界大戦では北アフリカに従軍しており、ドイツ軍の北アフリカ攻勢の最中、銃剣突撃を敢行して重傷を負い、ドイツ軍の捕虜になった。
当初死んでいると思われ、他の死体の運搬中に動き出したのでドイツ軍はびっくりしたらしい。
一命を取り留めたかと思うと2ヶ月後脱走。オランダを経由して本国に帰還する。


1921年、モロッコでスペインの支配に抵抗するベルベル人の反乱が勃発(第三次リーフ戦争)。
スペイン軍の苦戦とリーフ共和国の成立、これを後押しした共産主義勢力によって戦火が拡大するとフランス領植民地に飛び火したため、
フランスは第一次大戦の英雄ペタン元帥のもと、30万人もの兵力を派遣して鎮圧にあたり、リーフ共和国は崩壊。
指導者アブド・エル・クリムはフランス軍に投降、この時の功績によりジローはフランスの最高勲章レジオンドヌール勲章を授与される。
その後モロッコで反乱軍鎮圧を指揮し、フランス北東部メスの司令官となる。
1936年には少将に昇進、このころド・ゴールと知り合うが、部隊の機甲化や電撃戦を強力に推進する主張に反対している。


第二次大戦が始まり、1940年5月10日にドイツがオランダ・ベルギー・そしてフランスへの侵攻を開始するとベルギー戦線の増援に赴いたが、
ドイツ軍の電撃的な進行速度は想定を遥かに上回り、ジローが到着した時にはすでに司令部は占拠されており、そのまま捕虜になってしまった。
ドイツの将校の一部は戦間期にフランス軍の進歩的な軍事理論を研究しており、特にヒトラーはジローの著書に感銘を受けていたが、
これはヒトラーの勘違いで実際にその本を書いたのはド・ゴールであった。
ともあれ進歩的な思想を持つフランス軍高官を捕虜にしたことはドイツ軍の喜ぶべきことであったが、1年11ヶ月後、ジローは脱走した。


1942年11月に連合軍が北アフリカ西部へ上陸すると、ジローはフランス領北アフリカの軍司令官となり、
ド・ゴールと政治的な問題をめぐって対立しつつもコルシカ島の上陸作戦などを指揮して戦った。
その後は政治的にも台頭したド・ゴールにより失脚させられている。
(ジローとド・ゴールの対立についてはフランスの国際的な立場とか、非常にややこしい上に長い話になるので割愛)


戦後は議員として憲法制定などに携わったりもしたが、2年後に退任。1949年に死去した。

AMC34軽戦車 Edit

AMCはAutoMitrailleuse de Combat:戦闘用装甲車両の略。
フランス軍は第一次大戦の悲惨な戦訓から、国土防衛は強固な防衛線を敷いて行うと決めていたが、
一方で敵部隊の追撃や先制攻撃する程度には騎兵も必要と考えており、その機械化に着手するにあたって開発した戦車である。
その仕様は騎兵科でも楽に運用できるように、車重を9トン以内とすること、装甲は機関銃を防げること、
時速30kmで巡航でき、主砲はルノーFT-17かそれ以上の火力を持つこととされた。
こうした要求に従って完成した戦車は1934年採用となったことからAMC34と呼ばれ、ルノーFT-17の砲塔がそのまま載っていた試作品から、
鋳造砲塔へ新たに47mm砲を搭載した。


ところが実際に使ってみると運用部隊では小さすぎると不満が続出した。
特に1人で操作する砲塔は装填・射撃を車長1人でこなさねばならず、その上戦車の指揮や周囲の状況確認までしなければならない。
結局調達は12両で打ち切られ、拡大型のAMC35が開発されるとともに、仕様書も変更されて最大重量を20tまでとされた。
この仕様に従って生まれたのがソミュアS35中戦車である。
AMC34は後継であるAMC35の生産が遅れたため、第二次大戦の開戦時にも第一線に配備されていたが、
ドイツ軍にはとても太刀打ちできず、残存車両は鹵獲されてしまった。
ところがドイツ軍でも使い道がないとされ、結局スクラップにされている。


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