テイラー のバックアップソース(No.3)
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*元ネタ紹介 [#introduction]
マクスウェル・ダヴェンポート・テイラー大将。(1901年 - 1987)
1922年に士官学校を卒業後、ハワイの工兵隊に所属する。
その後中尉に昇進して砲兵隊に配置換えになった後、パリへ語学留学してフランス語の他スペイン語も学び、軍の語学講師も勤めた。
1935年から39年まで、東京の駐日アメリカ大使館に武官補佐官として赴任。
日本語も堪能で、1937年には盧溝橋事件調査のため北京に出張し、日本軍が出入りする地元の食堂で兵士の方言を聞き分けて、
派遣されたのが内地の3個師団であることを見抜いて報告したという逸話もある。
テイラーは最終的に7ヶ国語に精通していたという。
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第二次世界大戦では当初第82空挺師団に所属していた。連合軍とイタリア政府の仲介や折衝に当たるとともに、
イタリア降伏後のローマ制圧のためイタリア軍と連携した空挺部隊の展開を進めていたが、政治的な問題からこの作戦は寸前で中断された。
中止命令が出された時、空挺師団はすでに輸送機に乗って飛行中であったが、降下地点のローマにはドイツ軍がすでに進駐しており、
もし中断が間に合わなければ大惨事であった。
その後、イギリスで訓練中の101空挺師団に所属。師団長ビル・リーが心臓発作や脳卒中など健康上の問題から退役を余儀なくされたため、
急遽101空挺師団の指揮官となる。
1944年6月、ノルマンディー上陸作戦のため101空挺師団は82空挺師団とともにユタビーチの背後へ降下、このときテイラーも指揮官でありながら兵卒たちと共に前線へ参加した。
テイラーたちは参加したがっていた前任指揮官のリーを讃え、「ビル・リー!」と叫んで降下したという。
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その後もテイラーは101空挺師団指揮官として終戦まで戦った。
マーケット・ガーデン作戦においてはテイラーの101空挺師団は最も近いアイントホーフェン地区を鮮やかに占領し、
陸から進発する[[ホロックス]]率いる第30軍団の進軍を助けた。
しかし続く[[ギャビン]]率いる第82空挺師団が確保する予定だったナイメーヘンは、空挺作戦を熟知した[[シュトゥデント]]の部隊が配置されており、
この確保に手間取ったことなどからマーケット・ガーデン作戦はその最終目標を達成することができなかった。
1944年12月、補給と再編成を進める中、軍の主要メンバーを集めた会議がアメリカ本土で行われることになり、
テイラーはそれに参加するため部隊の再編を[[マコーリフ]]准将(当時)に託し、飛行機で本国へ向かった。
ところがドイツ軍がアルデンヌを突破して攻勢を仕掛けてきたため、交通の要所バストーニュを速やかに防衛する必要が発生した。
[[アイゼンハワー]]は緊急に展開できる部隊として経験豊富な第82空挺師団及び101空挺師団の投入を決定し、テイラー不在のまま101空挺師団はバストーニュで交戦。
不可抗力もあったとはいえ、慌てて戻ったテイラーに部下の何人かは不在だったことへ不満を漏らしたという。
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戦後は陸軍士官学校校長、欧州連合国軍司令官、陸軍参謀スタッフ、第8軍司令官時代には朝鮮戦争にも参加、
その後2か月ほど極東最高司令官兼琉球列島米国民政府民政長官に就任した後、1955から3年に亘って陸軍参謀総長を務めた。
しかし、[[アイゼンハワー]]大統領のニュールック政策に対し「核兵器に頼り過ぎ、通常戦力を疎かにしている」と批判し、一度軍を退役する。
1961年、ケネディがアイゼンハワーを破って大統領に当選、就任直後のピッグス湾事件でキューバ社会主義政権の転覆を図るも失敗した。
テイラーはその事件検証の特別調査委員会委員長に起用され、以後ケネディ政権で国防政策に関わる事となる。
1962年、テイラーは統合参謀本部議長に就任。
ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領のもとでは軍を退役し南ベトナム大使に就任し、アメリカがベトナム戦争へ傾倒するきっかけになった人物でもある。

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