ネーリング のバックアップソース(No.1)
*元ネタ紹介 [#introduction]
ヴァルター・ネーリング大将(1892 – 1983)。
第一次世界大戦に歩兵連隊の小隊長として従軍し、活躍により鉄十字章を授与される。
その後航空隊へ志願したが、入隊2週間で墜落事故を起こして重傷を負い、パイロットの道を諦める。
再び歩兵部隊に残って西部戦線で戦ったがここでも重傷を負い、入院中に終戦を迎えた。
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戦間期もヴァイマル共和国軍に所属して活動、その後保有を禁止されていた参謀将校の秘密養成学校に入学し、訓練を受ける。
また自動車運転の訓練などを通じ、自動車化部隊の編成に向けて尽力した。
この際、電撃戦のあるべき姿について模索を続けていた[[グデーリアン]]と知り合い交流を深める。
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第二次世界大戦が勃発するとポーランド侵攻、フランス侵攻といった主要な戦いで装甲師団参謀長として参加、大きな功績を挙げる。
これによりフランス侵攻が一段落した1940年8月、少将に昇進し、新たに編成された機甲師団の団長に任命された。
1941年6月にバルバロッサ作戦が始まるとこの師団を率い、潜水戦車を使って2つの川での渡河作戦を成功させ、この功績により騎士鉄十字章を授与される。
バルバロッサ作戦は結局失敗に終わったがネーリングはよく戦い、一段落した1942年2月中将に昇進となると、北アフリカへ転出した。
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アフリカでは[[オーキンレック]]率いるイギリス軍を破り、トブルクを奪回するが、その後エル・アラメイン第一次会戦を経て、
第二次攻勢であるアラム・ハルファでの戦闘において、[[モントゴメリー]]の防衛に阻まれ、自身も空爆で重傷を負った。
回復後、1942年11月、エル・アラメイン第二次会戦で敗走する[[ロンメル]]の後方、アフリカ西部から上陸したアメリカ軍を撃退すべく、チュニジア方面司令官となる。
緒戦でアメリカ軍を撃退したネーリングをケッセルリンクらドイツ軍上層部は、東部戦線などでの戦功から高い評価を与えていたが、
ネーリングは後に共同で戦史を執筆する仲でもあるグデーリアンに負けず劣らずの直言癖があり、
不足する北アフリカ方面への補給について上層部を公然と批判したため更迭された。
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その後東部戦線に戻され、終戦まで第四装甲軍や第一装甲軍といった名だたる部隊を指揮して戦い、1944年2月に柏葉章、1945年1月には柏葉剣付章を追授された。
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戦後は戦史の編纂や研究などで名を残している。

**三号潜水戦車 [#gf5c26e1]
来るべき英国への上陸作戦を見据えて、歩兵支援のため開発された水陸両用戦車。
潜水戦車の名の通り、水中に沈んで水底を履帯で走り、沿岸部へ上陸する。
もちろん空気がなければ乗員は死ぬしエンジンも止まるので、シュノーケルとポンプを使って空気を送り込む。
このシュノーケルは長さが15mもあり、したがって水深15mまで渡河可能だった。
なお水中での視界は殆どないため、乗員は地図とコンパスだけ頼りに目的地までほとんど目隠し状態で進む。
(ドーバー海峡の水深は35mあるので、ドイツからずっと水中通って行けるわけではない。途中から船で下ろす)
初期は3.7cm砲交換のため前線から戻されたF型を改造して水密処理などを行ったものでテストされ、
結果が良好だったことから5cm砲を装備したG型、装甲を倍増したH型でも潜水タイプが作られた。
潜水式のため重量増加にも対応は容易であった。
ゼーレーヴェ作戦の中止と、独ソ戦での渡河作戦使用のため、シュノーケルを短くして利便性を向上したものが実戦投入され、戦果を挙げている。
しかし水密処理の維持管理が大変なため、それ以降積極的な渡河作戦や上陸作戦が行われなくなったこともあり、
潜水戦車の出番はなくなってしまった。
四号戦車バージョンも有るほか、初期のティーガー戦車は重量が大きすぎ渡れる橋が少なかったことから、渡河用の装備を持っていた。

*コメント [#contemt]
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