フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス元帥(1890 - 1957)。
元々海軍志望であったが入隊できず、一度は法律家を志すも諦めきれずに陸軍へ入隊する。自身は下級役人の家に生まれた平民だったが、 士官学校の同期だったルーマニア貴族の妹と懇意になり、結婚する。 勤勉・実直・誠実・生真面目・礼儀正しい、これらパウルスの評価は第一次大戦~戦間期を通じてパウルスの評価を高めたが、 身体は第一次大戦初期に罹患した赤痢により生涯病弱であった。 1935年ドイツが再軍備宣言に乗り出すとともに自動車化部隊の参謀長に就任。グデーリアンは当時のパウルスを後年このように評している。 「極めて聡明で誠実、独創性と才能にあふれているが、部隊指揮の経験不足からくる決断力と粘り強さを欠く」
第2次大戦ではライヒェナウ元帥の右腕として辣腕を振るい、ポーランド侵攻やフランス戦に置いて功績を挙げる。 デスクワークには相当向いていたらしく、1940年9月には陸軍総司令部参謀本部の兵站部長という、実質的な軍部の№3の地位を得た。 また当時ドイツ軍の主要な地位を占めていた貴族階級出身でないにも関わらず、誠実で礼儀正しいパウルスの姿勢はヒトラーにも気に入られている。 しかし独ソ戦の開戦後、ライヒェナウ元帥の急死により急遽第6軍の後任となってから悲劇が始まる。 師団長・軍団長経験がないパウルスの「飛び級」就任には異論も多く、更に部隊では前線で陣頭指揮を取る熱血派だったライヒェナウに対し、 デスクワーク中心のおとなしいパウルスは当初歓迎されず、命令無視が頻発した。 就任4ヶ月後、ソ連軍の大規模な反攻作戦を阻止し、逆に24万ものソ連軍捕虜を取った第二次ハリコフ戦でその指導力を示したことでようやく信頼を勝ち得る。 3ヶ月後、ドイツはブラウ作戦を開始し、第6軍は第4装甲軍、イタリア第8軍、ルーマニア第3軍らとともにB軍集団としてソ連南方へ進出した。 B軍集団は快進撃を続けるものの補給が追いつかず、更にスターリングラードの攻防戦で包囲され絶望的な状況に置かれる。 直前のホルムの戦いでの防衛成功を過大評価していたヒトラーとドイツ軍首脳部はスターリングラードの死守に固執。 マンシュタインらが一時は包囲網の解除に成功するも、結局脱出は叶わず、餓死者や自殺者も多発する中で、 1943年1月、パウルスへの柏葉付き騎士鉄十字章授与と元帥就任が通知される。 ドイツ軍において降伏した元帥はいないという前例に従い、玉砕せよという暗黙の命令であったが、パウルスは結局これを無視して残余の将兵とともに投降した。
その後ソ連軍捕虜となるとソ連側への協力姿勢を取り、ドイツの戦争犯罪告発などを行った。 (特にライヒェナウが発令したソ連軍捕虜の虐殺命令などを知る貴重な証人でもあった) 東ドイツで余生を過ごし、西ドイツに逃れた家族と会うこともなくシュタージの監視の元に亡くなっている。 ヒトラーの死守命令に固執して脱出しなかったにも関わらず、結局ソ連側へ投降し、その後反ナチス姿勢をとったとして評価が低い一方で、 大量の傷病者を置いての脱出をせず、あくまで部下のために投降したと評価する向きもある。 グデーリアンの評価の通り、重要な局面での決断力に疑問があったとも取れる一方、絶望的な玉砕命令がその後の反ナチ姿勢への転身の契機になったとも言え、 評価の別れる人物である。