ラウス のバックアップ(No.2)

元ネタ紹介 Edit

エアハルト・ラウス
1889~1956 享年67歳
オーストリア=ハンガリー帝国の南モラヴィア地方に生まれる。18歳でブリュンの士官学校を卒業し、クレマウンの第20猟兵大隊に配属される。第一次世界大戦が勃発するとポーランド南部に転属となり、自転車中隊の中隊長となる。1918年8月に結婚。戦後もオーストリア連邦軍に残り、陸軍省、ついでウィーンの自転車大隊に転属となる。のちに歩兵学校の戦術教官となった。
1934年に歩兵学校校長となり、1936年には参謀本部付大佐に昇進。ドイツによるオーストリア併合当時は駐在武官としてローマに派遣されることになっていた。併合によりウィーンの第5集団司令部に転属となる。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ラウスはウィーンの第XVII軍管区参謀長に任命された。
1940年7月に第4狙撃兵連隊長に任命され、ついで1941年4月に第6狙撃兵旅団長。
1941年10月に少将に昇進し、11月に第7装甲師団長に補されたが、着任前に第6装甲師団長に仮任命され、モスクワの戦いに参戦した。続くヴォロコラムスクまでの後退や反転攻勢を指揮。1942年4月に正式に師団長に就任した。
1943年1月に中将に昇進し、2月に第V装甲軍団司令官に就任、ハリコフを攻略した。4月に第4装甲軍司令官に任命され、1944年5月に第1装甲軍司令官に転じた。同年8月に上級大将に昇進して第3装甲軍を率いたが、1945年3月にオーダー川沿いの橋頭堡を失ったことを責められアドルフ・ヒトラーにより更迭された。
終戦時にアメリカ軍の捕虜となり、1947年6月に釈放された。戦後はアメリカ軍のために、とりわけソ連軍の作戦に関する覚え書きを数多く記した。
妻と共にバート・ガスタインに隠棲し、肺の病気のためウィーンの病院で死去した。
因みにミリ姫ラウスの若妻風のしゃべり方についての因果関係は不明である。

コメント Edit

コメントはありません。 Comments/ラウス? 

お名前:

  URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS