ラングラード のバックアップソース(No.2)
*元ネタ紹介 [#introduction]
本名ポール・アンヌ・ジョゼフ・アレクサンドル・バロン・ジロー・ド・ラングラード(Paul Anne Joseph Alexandre Baron Girot de Langlade)。
ご先祖様は二月革命で打倒されるオルレアン朝の役人で軍人でもあったジョゼフ=アンリ・ジロー・ド・ラングラード(Joseph-Henri Girot de Langlade)。
名前のとおり由緒正しいおフランスな家系である。
第一次、第二次両大戦に従軍し、主にアフリカ方面で戦い、ノルマンディー以降は[[ルクレール]]指揮下の第二機甲師団に所属した。終戦時の階級は准将。
[[パットン]]指揮の元、第二機甲師団は西部戦線南部を進軍していたところ、ドイツ守備軍が援軍として用意した第112装甲旅団と谷あいの小村ドンペールで相対する。
第112装甲旅団は60両近いV号戦車パンターと多数の火砲・戦闘車両を擁する強固な部隊であり、第二機甲師団は接敵すると戦闘開始前夜の内に素早く地形調査と支援爆撃要請を済ませて戦いに臨む。戦闘開始後は米軍による砲撃と航空支援、地形を利用したM10GMCの効果的な運用により戦いを優勢に運び、2・3日目にはラングラード率いる部隊が45両のパンター部隊を攻撃し41両を撃破する大戦果を挙げた。
4日目になる頃には第112装甲旅団は戦力の大部分を喪失するほどの壊滅的被害となり撤退、後に第112装甲旅団は解体された。

**M10GMC [#s9212307]
第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍がポーランド侵攻およびフランス侵攻における電撃的な進軍により勝利を収めると、
戦訓から機動力を持って押し寄せる大規模な戦車部隊を、歩兵部隊の持つ対戦車砲や砲兵の直射砲で防ぐことは大抵の場合困難であるという意見が大勢を占めた。
そこでアメリカ軍では来るべき次世代の陸戦について演習を重ねた結果、従来の部隊とは別個に、独立して対戦車戦闘を専門に行う「戦車駆逐大隊」を設置することにした。
(この時点で戦車の仕事はあくまで歩兵支援なのだ)
これは通常師団の後方に配置され、前線の要請を受けて現場に急行し、敵の機甲師団を迅速に撃破するという運用方法であるから、
求められるのは敵を迅速に撃破できる火力と、現場へ急行する機動力である。
そこで早速M3ハーフトラックの荷台に75mm野砲を乗っけたM3GMCや、より軽快で手軽に運用できるトラックの荷台に37mm対戦車砲を搭載したM6GMC"ファーゴ"が製造されたが、
これらはいわば「間に合わせ」であり、特に採用されている大砲の性能には不満が残るものであったため、本格的な対戦車砲とそれを搭載した戦車駆逐車の開発が求められた。
#br
かくして生まれたのがM4戦車の車台に新開発の3インチ対戦車砲を搭載したM10GMCである。
重い3インチ砲を搭載して機動力を確保するため、車台の装甲はM4よりも薄く、砲塔は天井のないオープントップ式であった。
視界の良いオープントップ砲塔に配置された3人の乗員が敵を迅速に発見し、先制して攻撃するためという理屈であるが、
前線の兵士たちからは上空で砲弾や迫撃砲や擲弾が破裂したら砲塔内は直ちに悲惨なことになるため不評であった。
(一部では壊れた戦車から切り出した装甲で天井を作ったりする者までいた)
一方でその主砲の威力は当時の米陸軍が持つ対戦車能力として随一のもので、北アフリカ戦線に登場すると火力不足のM3GMCやM6GMCよりずっと頼れる兵器であった。
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M10GMCは対戦車戦闘という本来の目的に対して一定の成果を上げたものの、常にベストな状態でいられるわけではなかった。
戦車駆逐大隊がその理論通りに活動できる機会は限られていたし、なお悪いことにドイツ版戦車駆逐大隊ともいうべき独立重戦車大隊が出現すると、
M10GMCはティーガー戦車との対決を余儀なくされたのである。
第二次世界大戦に置いて各国の中で戦車の役割は拡大され、戦車自身が対戦車戦闘をこなせるよう発展すると、対戦車戦闘専門ともいうべき戦車駆逐車の存在価値は急速に失われていった。

*コメント [#contemt]
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