ヴォイテク のバックアップソース(No.1)
*元ネタ紹介 [#introduction] カティンの森事件でソ連とポーランド亡命政府が手切れになると、亡命政府軍(アンデルスとシシュコらの部隊)も連合国軍のソ連赤軍から 英米軍指揮下へ移動。中東のペルシア回廊の補給隊の一員として参加することになる。 #br [[シシュコ]]が副軍団長を務めたポーランド第二軍団はポーランドから亡命した難民らも抱えた大所帯になっていた。ペルシャ(イラン)ハマダーン近郊の ポーランド人難民キャンプに現地の少年がチャイロシリアグマ(ヨーロッパヒグマの一種)の子熊と缶詰1個を交換したことに物語は始まる。 #br おなかがすくと食べ物を求め、そこら中を荒らし、難民キャンプでも扱いに困ったため、ポーランド陸軍に引き取られ、ヴォイテクと名付けられた。 当時生後間もない状態だったヴォイテクは火炎瓶をヒントに、ウォッカの空き瓶に加糖練乳を希釈したミルクを入れ、口をハンカチで塞いで染みだしてくる 簡易哺乳瓶ですくすくと育った。加糖練乳のミルクで育ったため甘いものを好み、人間に育てられたため、人間同じようにタバコを吸ったり、 ビールを飲んだり、シャワーを浴びるのが好きになったりしていた。 #br ある日キャンプで不審なアラブ人が悲鳴を上げる事件が発生。シャワーを浴びていたヴォイテクを見てびっくりしたのが原因。 そのアラブ人は盗人だったかスパイだったか諸説あるようだが、不審者を捕まえることになったヴォイテクの初手柄(笑) 褒美は好物の瓶ビール2本だったらしい。 #br 部隊のみんなに可愛がられたこのクマは、部隊と一緒にずっと移動していたが、ペルシア回廊の補給隊から南イタリアの作戦に転戦のため、中東から イタリアへ移動することになった。エジプト・アレキサンドリアまでは鉄道で移動できたが、アレキサンドリアの港で連合軍のイギリス軍の輸送船から 「動物」の乗船を拒否された。アンデルスとシシュコは機転を利かせ、ヴォイテクを正式に二等兵として任命、第22弾薬補給中隊所属として「兵士」に なったヴォイテクはめでたく輸送船に乗ることができた。(ついでに好物のビールとタバコを買う給料も支給された) モンテ・カッシーノの激戦のさなか、ヴォイテクは兵士4人がかりで持つ重い弾薬箱を1人で持ったという。器用に前足で箱を抱え、重砲撃の音にも臆さず、 箱を一度も落とさなかったという。 #br ローマが陥落しイタリア解放後もナポリに駐留していた第22弾薬補給中隊は第22輸送中隊に改称されトラックにはいつしかトレードマークの砲弾を抱えて 二本足で歩くクマの絵が描かれ、これが1945年2月には正規部隊章となった。 #br ドイツ降伏で戦後処理が始まるのだが、ポーランドはソ連の支配下におかれ祖国の共産主義化に反対する亡命政府との対立により国に帰れなくなる。 イタリア駐留も終わり、亡命政府のあるイギリスにポーランド第二軍団も移動することになる。 #br 1946年10月イタリア・ナポリからイギリス・スコットランド・グラスゴーへ移動。ヴォイテクが伍長に昇進したのはこの頃らしい。 部隊はさらにイギリス・スコットランドとイングランドとの国境近くのウィンフィールド・キャンプに移動。(イギリス政府も扱いに困っていたものと思われる) しばらくは地元民に歓迎されヴォイテクはスコットランド・ポーランド文化協会の名誉会員になるなど話題になる。 #br ここで部隊はポーランドへ帰国するか否かという問題に直面する。アンデルスは国外追放処分のためイギリス亡命、シュシュコも亡命、将校らの多くは亡命を希望 したようだが、一般の兵員は帰国と亡命の選択に苦慮したようだ。 #br 連合国軍の命令により1947年11月15日に動員解除で部隊が解隊となり、ヴォイテクはエディンバラ動物園に預けられた。 イギリスBBCに出演するなど話題になり、本国ポーランドでもヴォイテクを引き取るべきだという論争が起きる。 #br 時々訪れてくれる戦友に愛され、お土産のタバコをもらったりしたりしながらも、晩年リウマチと食道の病気に苦しみ1963年に安楽死という方法が取られる。 合掌、享年22。チャイロシリアグマの平均寿命からすれば6割ほどの短い人生だったようだ。 *コメント [#contemt] #pcomment(,reply,10,) |