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ドラグンスキー
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ドラグンスキー
型式T-34 1941年型兵科中戦車
画像装備欄
ドラグンスキー.jpg76mm戦車砲 F-34
空きスロット
空きスロット
空きスロット(改)
ステータス
No.127No.???
★★★☆☆☆☆☆☆☆
体力55(55)/??(?)/?
火力35(55)/??(?)/?
命中47(52)/??(?)/?
装甲31(31)/??(?)/?
回避18(18)/??(?)/?
対空10(10)/??(?)/?
偵察12(12)/??(?)/?
Lv1裸(Lv1初期装備込み)/改LvMAX強化MAX裸
占領可→可
燃料17/96(?)?/?(?)
弾薬17/88(?)?/?(?)
1戦分の通常消費量/Lv1容量(改LvMAX)
改良・昇格
改(Lv25)
図鑑説明
戦車大隊長や機械化旅団参謀長、親衛戦車旅団長として、戦闘に携わったわ。
英雄なんて呼ばれたこともあるけれど、私は私のやるべきことをやっただけ…。
自分の居場所は現実世界にあって、それは自分で勝ち取るものだと思うの。
ねえ、そう思わない?

CV:舞原ゆめ   イラストレーター:パパ・ネネ

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元ネタ紹介 Edit

ダヴィド・アブラモヴィチ・ドラグンスキー(1910年2月2日 - 1992年10月12日)ソ連において正式に大将にまで上り詰めた唯一のユダヤ人。


ユダヤ人が多く住むスヴャーツク村で、ユダヤ人の貧しい仕立て屋の8人兄弟の大家族の元に生まれた。
19歳でクラスノプレネンスキー地区ソビエトに選出され、1931年に共産党に入党。党の動員により農場で働くよう指示され、カリーニン地方のアフマトヴォ村に送られたりしていた。

1933年2月に赤軍に徴兵され、白ロシア軍管区第2歩兵師団所属第4歩兵連隊の連隊学校で士官候補生を務めた。 1933年10月、高校を卒業して軍学校への入学許可を申請した。
1936年サラトフ装甲学校を優秀な成績で卒業し、軍務のため極東に派遣される。
1936年11月以降、ラズドルノエ駅に配備されていた特殊赤旗極東軍の、第32射撃師団の第32独立戦車大隊の戦車小隊の指揮官となり、1937年9月からこの大隊の戦車中隊を指揮していた。
極東でのドラグンスキーの最初の仕事は、T-26戦車による綏芬河での渡河だった。
T-26にパイプを取り付けたり完全密閉するなどの改造を施し15分後に対岸へと移動させた。この功により師団長から腕時計を貰った、ドラグンスキーが初めて授与された「勲章」だった。
1938年にハサン湖での戦闘(張鼓峰事件)に参加し、戦車中隊による二度の攻撃を行った。その功績により赤旗勲章を授与された。1939年初頭にはM・V・フルンゼ軍事大学に入学し士官候補生となった。

1941年には上級中尉となっていたドラグンスキーは、ソ連の西部国境に位置するオソヴィエツ要塞に配備されていた第2白ロシア師団で、士官候補生としての教習を受けていた最中に独ソ戦が始まった。
1941年7月21日にモスクワに戻った後、西部戦線所属の戦車大隊指揮官に任命された。
ドラグンスキー大隊はスモレンスク・モスクワ近郊・クルスク郊外の戦いで幾度もドイツ軍に大打撃を与えた。
1943年10月21日に第55親衛戦車旅団の指揮官に任命されたドラグンスキー中佐は、ヴァシリコーフ(現ヴァスィリキーウ)、キエフ、右岸ウクライナを解放した。
これらの戦功により、スターリンによって新たなソ連国防人民委員令が発布され、第55親衛戦車旅団には「ヴァシリコフスカヤ(ヴァシリコーフの)」という名誉ある名が与えられた。

1943年12月9日、ウクライナのマーリン市ヤルツォフカ村での戦車戦で、ドラグンスキーは至近距離で砲弾が炸裂したことにより重傷を負い、半年間の治療を受けることになった。
この期間、ドラグンスキーに絶望する知らせが入った。


スヴャーツク村のユダヤ人は、一人残らず皆殺しにされた。


ドイツの占領から解放された故郷であるスヴャーツク村は壊滅状態になっており、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)は二つを除いて全て焼失していた。
そして、父・母・祖父・祖母・姉とその3人の幼子、15歳の妹、村に居た家族や親族74人全員が殺され、3人いた兄弟のうち2人も前線で戦死していたということを知った。

1944年7月、ドラグンスキーは旅団へと復帰した。
月末のリヴォフ=サンドミール作戦に参加し、激戦の最中ドラグンスキーの旅団は迅速に行軍しヴィスワ川に到達した。
しかし、移動のための輸送手段が遅れていたため、戦車を輸送できる丸太や板の組み立てを命じた。
その後、この陣地での長丁場の戦いが続き、攻防が行われていたが、最終的にドラグンスキーは決定的な反撃を行った。
ヴィスワ川の横断と橋頭堡の維持の功績により、「ソビエト連邦英雄」が授与された。

ヴィスワ=オーデル攻勢により、その名が知れ渡ることになる、1945年4月6日付けのソ連幹部会命令が発された。
『第55親衛戦車ヴァシリコフスカヤ赤旗勲章受章ボグダン・フメリニツキー勲章受章旅団指揮官ドラグンスキー親衛大佐に、イェンジェユフ、ヴィエルニ、リブニクの占領、ニダ川を横断した功績により、2等スヴォーロフ勲章を授与する。』

1945年3月に古傷が開き再入院が余儀なくされるも、医師にベルリンの戦いまでには治療を間に合わせる様に強制した。
1945年4月中旬に復帰が「間に合った」ドラグンスキーは第55旅団を再度指揮することになる。その後ドラグンスキー指揮下の戦車兵たちは、ベルリンの戦い、プラハ作戦、テルトウ運河の横断を勇猛果敢に遂げることになる。
1945年4月27日、ベルリン西端でドラグンスキー親衛大佐の第55親衛戦車旅団は第2親衛戦車軍と合流し、ドイツ軍の守備隊は分断され孤立し、ベルリンは陥落した。
1945年4月16日から30日までのベルリンの戦いで、ドラグンスキーの戦車部隊は795人のドイツ兵と将校の殺傷に加え、9台の戦車、3台の自走砲、7台の装甲車両、7門の火砲、37台の車両、2700人の捕虜、5か所の異なる貯蔵庫、4両の蒸気機関車と190両の貨物車両の他、多くの戦利品が鹵獲された。

ベルリンの戦いでの巧みな指導力と勇敢さに加え、旅団のプラハへの迅速な移動により、二度目の「ソビエト連邦英雄」を受章した。
ドラグンスキーは前線において5回負傷した。1942年8月11日と1943年12月9日に重傷を負い、1941年6月30日、1941年8月、1942年6月8日に軽傷を負った。

ドラグンスキーは1945年6月24日の戦勝パレードに参加し、戦後もソ連軍に従軍していた。1945年8月、第55親衛戦車旅団は第55親衛戦車連隊へと改編され、指揮官として残った。1947年12月、K・E・ヴォロシーロフ元帥高等軍事大学に就学。
1949年に卒業し、1950年2月以降は第5親衛戦車師団の指揮を執った。 1957年8月以来、第6親衛戦車軍第1副司令官を務め、1959年4月からは第1分離軍の第1副司令官に就いた。

終戦後は家族や親族、同胞の記憶を永遠に残すよう、ソ連の他の多くの都市に記念碑を設立する活動を行っていた。、
ドラグンスキーは、シオニズムがファシズムを生み出し、ファシズムが家族や故郷を奪い去ったと固く信じていた。
シオニズムを反共・反ソの思想であると確信し、1950年以降はシオニズムの具現化であるイスラエルへの攻撃的な言動が増えていった。
1983年4月21日のソビエト社会反シオニスト委員会(AKSO)創立の瞬間から人生の最後の日まで常任議長だった。
共産党政治局はAKSOの活動停止を二度考えたが、ドラグンスキーはそれを阻止しAKSOを守り切った。

1960年5月、ザカフカース軍管区所属第7親衛軍司令官。1962年、アルメニア共産党中央委員会の幹部会委員、アルメニアSSRの最高ソビエト副議長に選出。1965年6月、ザカフカース軍管区第1副司令官。
1969年5月、ソビエト連邦元帥B・M・シャポシニコフ名称高等将校養成科『射撃』課程長。1985年10月、ソ連国防省監察総監部。1987年11月、引退。

強固な共産主義者であったドラグンスキーは、1989年にペレストロイカが始まった時においても、これを反ユダヤ主義とシオニストによる陰謀であると述べていた。

1991年12月25日、ソ連は崩壊し、同時にソ連軍も消滅した、ドラグンスキーは家族も祖国も軍も全てを失い、1992年10月12日に死亡、ノヴォジェーヴィチ墓地へと埋葬された。ドラグンスキーが最後まで守り通そうとしていたAKSOも解散した。

2006年にはスヴャーツク村は廃村になっている。

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