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マインドル
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マインドル
型式Fallschirmjäger兵科歩兵
画像装備欄
216 マインドル.pngFG42
空きスロット(改)
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ステータス
No.216
★★☆☆☆
体力18(18)/?
火力11(14)/?
命中32(40)/?
装甲6(6)/?
回避50(50)/?
対空5(5)/?
偵察28(28)/?
Lv1裸(Lv1初期装備込み)/改LvMAX強化MAX裸
占領優→秀
燃料4/36(?)
弾薬4/36(?)
1戦分の通常消費量/Lv1容量(改LvMAX)
改良・昇格
改(Lv15)
図鑑説明
マインドルです。ナルヴィク戦からパラシュート降下しておりました。
その後空軍に移籍。私の部隊がそのまま降下猟兵の元となっております。(音声ではここで「ラムケは私の部下です。立派な奴です。」が入る。)
終戦間際もヴェーゼル橋頭堡で戦い続けました。
155番目の剣柏葉付き騎士十字章をいただきました。
しかし、最近は大規模空挺降下もやらなくなりました…

CV: 朋永真季  イラストレーター: ヒライユキオ

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元ネタ紹介 Edit

第二次世界大戦中、ドイツ軍降下猟兵部隊を指揮したオイゲン・マインドル大将。1892年に当時のバーデン大公国にて生まれる。
(バーデン大公国の最後の大公フリードリヒ2世のいとこ、マクシミリアンは1918年10月にドイツ帝国の宰相となり、終戦に向けて奔走、ヴィルヘルム2世を退位させたことで知られる)


第一次世界大戦には砲兵として従軍、昇進を重ねる。
大戦後も砲兵部隊を転任し昇進。第二次世界大戦が始まると山岳砲兵連隊の指揮官を任されていた彼は、ノルウェーのナルヴィク侵攻においてパラシュート降下を行い、
ノルウェーにおける戦いにおいてドイツ軍を印象づけた。
その後降下猟兵部隊の指揮官として空軍に転属となり、クレタ島での戦いに参加、大きな損害を出しながらも勝利に貢献し、騎士鉄十字章を授与された。
この戦いで胸に銃創を負い戦傷章黒章も授与されている。


クレタ島の戦いは成功に終わったものの、空挺部隊の大きな損害にショックを受けたヒトラーは以降空挺作戦に消極的になり、
降下猟兵はもっぱら地上のエリート部隊として戦い続けた。
マインドルも東部戦線で、1944年に連合群が上陸すると西部戦線に転戦し終戦まで戦い続けている。
1945年5月8日、ドイツの降伏とともに柏葉・剣付き鉄十字章を授与される。
全159人(+1人の外国人(山本五十六))中155番目の授与であり、ドイツ空軍最後の授与者でもあった。

降下猟兵 Edit

第一次世界大戦後、各国は空挺部隊の重要性を認識して各自空挺部隊を組織した。
再軍備中のドイツ軍は陸軍と空軍で異なる運用を考えていた。
陸軍がグライダーで戦線の後方に着陸、侵攻してくる味方の地上軍と連携して戦うというもので、空軍のそれは少数の精鋭がパラシュート降下によって拠点を確保、味方の到着まで維持するというものだった。


1935年にヘルマン・ゲーリングがドイツ空軍の最高司令官になり、警察権力をヒムラーに移譲する際、警察の管轄下だった「ヴェッケ特殊任務警察大隊」が空軍に移管され「ゲネラル・ゲーリング連隊」となった。この連隊の第I大隊より募られた24名の訓練生達が最初の降下猟兵である。


1936年10月に行われたドイツ軍の秋期大演習において、第I大隊の一個小隊は見事な降下を見せる。彼らは1938年3月に「ゲネラル・ゲーリング連隊」から分割され、最初の降下猟兵部隊の第1降下猟兵連隊第I大隊に再編された。
(第1降下猟兵連隊の第I大隊第1中隊らを基幹とする、いわゆるコッホ突撃大隊が降下猟兵の元というべきで、本人の説明の台詞は間違い)


1938年7月に空軍総司令部は降下部隊、滑空グライダー、輸送機部隊を一つに統合して第7航空師団を創設、司令官にはクルト・シュトゥデント少将が任命された。
すでに第1~第5の各航空師団が存在し、1939年2月には第6航空師団の編成が決定していたので連番で命名された。(なお1943年4月に第1降下猟兵師団に改称されるまで、第7航空師団のまま戦い続けていくことになる)


第7航空師団と陸軍第22空輸歩兵師団の将兵は1941年5月10日に実施された、ベルギー軍のエバン・エマール要塞攻略戦において要塞を急襲し、短時間で要塞を占領することに成功した。


1941年5月20日に発動したクレタ島の戦い(メルクーア作戦)において第7航空師団が降下作戦を展開。
10日間の戦闘によってクレタ島は占領され、最も有名な降下作戦となったが、作戦開始早々に第7航空師団長シュスマン少将が事故で戦死(He111が巻き起こした後方乱気流に巻き込まれ、DFS230グライダーが墜落)、また西のマレメ飛行場を目標に降下した西部降下集団のマインドル少将は銃撃によって重傷を負うなど被害も甚大で、6500名以上の死傷者を出したとする説もある。


奇襲効果が失われた後の降下作戦は大損害を生む、という戦訓から以降、降下猟兵による大規模な降下作戦は実施されず、彼らは精鋭部隊の歩兵として各地の戦線で戦った。
戦況の変化によって降下訓練を行わなかったにも関わらず、一種の敬称として「降下猟兵」という呼称はそのまま使われ、東部戦線の「火消し」として、またイタリア半島において連合国軍を相手に頑強な抵抗を続けた存在としてドイツ敗戦まで戦闘を続け、精鋭部隊としての名を残した。

FG42 Edit

クレタ島におけるドイツ空軍降下猟兵の戦いぶりは連合群に衝撃を与え、大規模な空挺作戦を実施するきっかけを作った。
一方のドイツ軍にとってもクレタ島における降下猟兵は衝撃であった。損害が想定外だったのである。
その理由として、当時のドイツ軍降下猟兵はパラシュート降下の際、兵士の所持する装備はピストルと手榴弾のみで、
他のライフルや機関銃といった装備はかさばるため、コンテナに入れて別個に投下された。
つまりこのコンテナを回収できないと、エリート降下猟兵はただのピストルを持った兵隊でしかなかった。


そこで空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、降下猟兵たちが携行したまま降下でき、ライフルとしても機関銃としても使える優れた小銃の開発を指示した。
開発は難航し、完成後も様々な不具合に悩まされたことや、降下作戦自体が行われなくなったことも有り必要性が薄れたことから生産数は多くなかった。


FG42にとって最も名声を高めたきっかけは戦後である。
そのコンセプトと設計は後のアサルトライフルや軽機関銃に大きな影響を与えた。

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