Top > ヴァシレフスキー

ヴァシレフスキー
HTML ConvertTime 0.049 sec.
ヴァシレフスキー
型式JSU-152兵科自走榴弾砲
画像装備欄
ヴァシレフスキー.jpg
画像サイズは暫定315x418
152mm砲ML-20S
空きスロット
空きスロット
空きスロット(改)
ステータス
No.021No.022
★★★★☆★★★★★
体力?(?)/?75(75)/?
火力?(?)/?58(86)/?
命中?(?)/?46(51)/?
装甲?(?)/?44(44)/?
回避?(?)/?8(8)/?
対空?(?)/?11(11)/?
偵察?(?)/?5(5)/?
Lv1裸(Lv1初期装備込み)/改LvMAX強化MAX裸
占領不可→?
燃料?/?(?)?/110(?)
弾薬?/?(?)?/110(?)
1戦分の通常消費量/Lv1容量(改LvMAX)
改良・昇格
改(Lv30)
図鑑説明
ドイツのバルバロッサ作戦に対向するために、
軍学校で研究した縦深戦術理論を応用して防衛作戦を立案したよ。
ソ連の広い領土があっての作戦だったけど思いのほか成功してくれてうれしかった。
スターリングラード攻防戦では参謀総長として参加したよ。

CV:野口瑠璃子   イラストレーター:只野まぐ

入手方法 Edit

プレミアム招集

セリフ一覧 Edit

 クリックで展開

元ネタ紹介 Edit

アレクサンドル・ミハーイロヴィチ・ヴァシレフスキー(1895年-1977年)。ソビエト連邦元帥。ソビエト連邦英雄(2度)。
大祖国戦争(独ソ戦)時の参謀総長。スターリンとジューコフ以外では勝利勲章を2度受章している唯一の人物。


父親は司祭、母親は司祭の娘という聖職者家庭で、8人兄弟のうちの4番目の子供として生まれた。
貧乏なのと親の意向で神学校で学んでおり、戦争や革命が無ければ間違いなく聖職者になる人物だった。


しかし第一次大戦が始まると1915年に軍学校に入り、戦時の人手不足ということもあり4ヶ月で卒業し下仕官となる。
赤軍のエリート階級と言われた騎兵科ではなく砲兵科の出身であり、革命が起きるまでに大尉に昇進し、内戦が終わる頃には副連隊長となっていた。
内戦後は共産主義的によろしくない家族とは縁を切り絶縁したが、やはりこれが原因で共産党に入党できないどころか1931年まで党員候補にすらさせて貰えず、
正式に党員になれたのは1938年になってからだった。


1931年に戦闘訓練部に勤めている時に、騎兵監代理に昇格してきたジューコフと出会い、二人の長い付き合いが始まる。
1936年に創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入校し、卒業直後にそのままここの講座長になるが1年でやめてまた参謀本部に戻る。
参謀本部に戻って来ると当時参謀総長だったボリス・シャポシニコフに気に入られスターリンに紹介された。


第二次世界大戦が始まると参謀次長・作戦局長として、モスクワ防衛計画を最高司令官代理となっていたジューコフと共に練りドイツ軍の撃退に成功する。
スターリングラード攻防戦の最中の1942年にシャポシニコフが病気で辞任し後任にヴァシレフスキーが参謀総長となり、ジューコフと共に反攻計画を立案しスターリングラードで大反撃を開始しドイツ第6軍を包囲することに成功した。


その後もクルスクの戦いを察知し防衛計画を立案し撃退。
バグラチオン作戦も計画立案し大兵力を徹底的な隠蔽・秘匿・欺瞞工作を行い奇襲、大攻勢を見事に大成功させソビエト連邦英雄を授与された。
この頃になると作戦の細かな調整や変更を加える時は、最高司令官スターリン・最高司令官代理ジューコフ・参謀総長ヴァシレフスキーの三人だけで会議をする事も増え、この三人の意思と考えによりソ連軍全体が動き始めた。
なお結果的には使用されなかったが、ヴァシレフスキーとジューコフにのみ戦線司令官でなくとも戦線を指揮できる特権をスターリンから渡されており、スターリンがジューコフと同等にヴァシレフスキーを特別視していたことが伺える。


戦争終盤ではジューコフと同じ様に第3白ロシア戦線の司令官となり、一司令官として東プロイセンへの攻勢を行いケーニヒスベルク含む東プロイセン地域全土を攻略。
ベルリン戦には参加せずドイツとの戦争は終了した。
ドイツとの戦争の後はジューコフがドイツの占領軍司令官になって動けなかったので、対日線では極東戦線の最高司令官として侵攻計画を練り関東軍を撃破した。


第二次世界大戦が終わるとまた参謀総長となり、その後は軍事相(後の国防相)に任命され、名誉職に就いたあとに回想録を書いて4年後に死去。
クレムリンの壁に埋葬された。


人物としては、穏やかな性格で相当な理論家であり縦深戦術理論を大きく発展させた。
兵を怒鳴り付けたり叱責することはあれど一般的な軍人程度であり、ジューコフやコーネフの様に過激なまでに短気だったり怒り狂ったりすることはなかった。
ヴァシレフスキーとジューコフでは性格がかなり違うが、仕事柄何度も顔を合わせるので自然と親しくなり、特筆すべきはヴァシレフスキーの息子のユーリーとジューコフの娘のエラが結婚して親戚関係にもなるほど親しかったが、ここがピークだった。
戦争が終わると邪魔者としてジューコフはスターリンから敵視され始め冷遇され、左遷や人事的な降格が始まり、ついにはジューコフの部下や秘書が銃殺刑にされたりし始めためヴァシレフスキーもジューコフには近づかなくなっていき、スターリン死亡後にはよりが戻せるかと思いきやジューコフとフルシチョフとの政争が始まってしまいついに関係が断絶、トドメに前述の息子夫婦が離婚してしまい、戦争で築きあげた友情が戻ることは二度と無かった。

JSU-152 Edit

ドイツのⅢ号突撃砲に触発され、T-34をベースにした自走砲SU-122と、その派生型SU-85やSU-100が完成する一方、
もう一つの主力重戦車KVをベースにした自走砲もまた開発された。
これはKV-2に使用されたM-10榴弾砲よりも重くて長射程の加濃榴弾砲とも呼ばれる152mm ML-20砲を採用したもので、SU-152と呼称された。
この砲は分離装薬で48kgもの大重量砲弾を発射するため連射速度が遅いという缺点はあるものの、1000mで120mmの装甲を貫通可能で、
なお恐ろしいことには大重量砲弾であるため距離によるエネルギー減衰が少なく、2000mの距離でもなお110mmの装甲を貫通し、ティーガー戦車に対抗しうる可能性を秘めていた。
しかし前面装甲は傾斜させたとはいえ60mmしかなく、撃破される可能性があった。


1943年11月にKV重戦車は後継JS重戦車にその役目を譲り、生産終了が決定した。
これを受けてJS-1/2重戦車の車体を用いてSU-152の改良型が直ちに開発されることになった。
これがJSU-152である。
車高の低いJS戦車に対応させて戦闘室の背がやや高くなり、正面の装甲は90mmに増やされた。
またハッチにもJS戦車同様のペリスコープが装着されている。
また天井の装甲は全面溶接だったSU-152から、半分だけボルト止めに変えられた。
表向きの理由は生産性と整備性の向上であるが、実は車両が被弾し、内部の燃料や弾薬に誘爆した際、天井部分が真っ先に吹っ飛んで圧力を逃し、
車体内部の損傷を防ごうという意図もあった。
JSU-152は122mm砲を搭載したJSU-122とともに大戦終了時までに4000両が生産され、その圧倒的破壊力は市街地戦闘でも存分に発揮されている。

コメント Edit

コメントはありません。 Comments/ヴァシレフスキー? 

お名前:

  URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS